夏の扉
「教室」の中には一列だけ蛍光灯が点っていた。廊下側の一列だ。窓はちょうど、いつか鳴海が歩いていた中庭に面しているようだ。待合室よりひとまわり狭い程度の部屋には、後ろ姿の子どもたちが五人、小さな椅子に腰掛けて正面を向いている。窓際にえらく古風な、それはおそらく怜が触れたこともない足踏み式のオルガンが一台置いてあり、演奏しているのは、談話室でショートヘアの女の子といっしょにいた上目遣いの子だった。
「……あの子」
「芹沢さん。芹沢真琴」
「あの子の名前ですか?」
「ええ」
上目遣いの子……真琴は新しく楽譜を広げ、何ごとか子どもたちに話しかけてから、演奏をはじめた。前奏。足踏みオルガンの音は、怜の胸元をそっと締めつけた。寂しさか懐かしさか、よくわからない。真琴は談話室で友人に見せていた微笑みをたたえ、子どもたちの歌に合わせていた。子どもたちは歌がうまい。揃って歌う姿は、オルガンとひとつになった楽器のようだ。確かに起伏はある。なのにその姿は、<団地>の路地を駆けまわっている子どもたちと、どこかずれている。真琴が鳴海に気がついた。小首をかしげ、片目をつぶって挨拶か。鳴海は手を振って応えた。子どもたちのひとりもこちらに気づき、歌いながら振り返る。怜が期待した無邪気な笑顔はそこにはなくて、隣に立つ鳴海の目に似た、レンズのような双眸がただ、怜を見つめるだけだった。
「入らなくていいんですか」
怜は鳴海の耳に囁く。
「わたしがですか?」
「ええ」
鳴海は一歩ドアから離れた。
「あの子たちの顔、見たでしょう」
怜はだまってうなずいた。
「入れないわ、わたしには」
「いっしょに歌ってあげればいいじゃないですか」
「あの子たち、こんなところにいるべきじゃないんです」
怜も一歩下がる。窓に近づくと、雨音が大きくなる。嵐の咆哮は、波の叫びによく似ていた。
「でも、ここにしかいられない。……帰る場所なんてないから。わたしも、真琴ちゃんも、みんな」
歌声はまったく破綻をきたさず、オルガンと調和していた。
「ごめんなさい、しゃべり過ぎですね」
「どうして。べつに僕は構いませんよ」
「いえ、あなたに言うことではありませんでした」
鳴海はすっと怜をすり抜け、廊下を戻る。
「なぜ」
鳴海を追い、廊下を進む。
「あなたは、ここの人じゃないですから」
「どういうことです」
「そのままの意味です。……帰らなくていいんですか」
「帰ろうにも、この雨ですよ。あなたが言うように、これじゃあ嵐の波打ち際とおんなじです」
怜が言うと、鳴海はふと立ち止まり、エントランスのガラスを透かし、いっそう強くなる雨の外を向いた。
「本当に、ひどい雨……」
怜が鳴海に並びかけたとき、眩いストロボが目を焼いた。間髪を入れず、建物を揺るがすような雷鳴。鳴海は両手で耳をおさえ、短い悲鳴をもらした。廊下も向こうからも、子どもたちの悲鳴が届いた。雷が苦手だと話していた稲村は、机の下にでも潜りこむかもしれない。
しばらく耳をおさえていた鳴海が、ふらりと歩き出した。階段でも待合室でもない、玄関へ。
「綾瀬さん?」
鳴海はガラス戸を押し、二重のドアのひとつめを出た。傘立ての怜の傘には目もくれず、そのままふたつめのドアも開け、散水車が放水しているような豪雨の直中へ飛び出していった。怜はあわててあとを追った。十メートルも向こうはもう、雨に霞んでいる。鳴海はその水の中へ駆けるように出ていってしまったのだ。何がどうしたというのだ、怜はわけもわからず少女の背中を追う。傘立ての傘をつかみ外へ転ぶように躍り出ると、身体を持っていかれそうなほどの強風に横面を張られた。耳に容赦なく雨滴が飛び込み、開けた口にも水滴が転がってくる。その味には憶えがあった。ぬかるむ海岸で自分を見失ったときに感じた、潮の味だ。風が吹いてくる方にむりやり首を向けると、白く霧のような壁が、不気味なほど近くに見えた。海だ。空は時刻が分からないほど黒々としていて、雨の向こうに街灯がすでに点っていた。こんな嵐は久しぶりだ。天気がおかしい。春だというのに!
鳴海はもう<施設>の外に出てしまっていた。揚水機場につながる道路を、風によろけつつ小走りに。怜は頬に突き刺さる雨粒を払うようにして、彼女を追う。開こうとした傘はあっという間にどこかへすっ飛んでいった。鳴海は足元がおぼつかない。いったいどうして。疑問はまた瞬く鯔妻がさらっていく。巨大なドラム缶を千本も転がしたかのような轟音が轟き、怜はその場に身を伏せた。音が聞こえてからでは遅いのに。とっさに鳴海を探した。口に広がる潮の味がこの上なく不快だ。強烈すぎる追い風に、つんのめりつつ道路に出た。鳴海は五、六メートル先の路肩に、頭をおさえてうずくまっていた。
「大丈夫ですか!」
鳴海までが遠い。たかだか数歩なのに、風が強すぎる。追い風がこれほど歩きづらいとは思わなかった。そっと進みたいのに、どこかの馬鹿がよってたかって自分の背中を押すのだ。
「大丈夫か」
鳴海の膝に血がにじんでいた。風にあおられて転んだか。それにしても、台風が上陸したわけでもないのに、この嵐はどうだ。
「綾瀬さん」
肩に手をかけ、抱き起こす。黒髪は濡れ、砂をかぶっている。開いた瞳は焦点が定まらず、空を泳いでいた。
「痛い……」
鳴海の右手が自分の膝をつかんだ。
「……転んですりむいたんだ。戻ろう」
顔を彼女の耳に近づけ、なかば怒鳴った。それくらいでないと、かき消されてしまう。
「立てますね」
少女は弱々しくうなずいた。怜は鳴海を支えつつ立ち上がる。今度は向かい風だ。道路の彼方に潮の壁が見えた。まるで津波だ。風でまきあげられた波だとわかっていても、気分がよくなかった。
鳴海の身体は思ったほど軽くはない。身長が怜とさほど変わらないのだから、当たり前だ。右腕に感ずる彼女の温もりが、意外に思われた。体温がある。それが不思議だ。鳴海は小さくうめいていた。風のせいか、雨のせいか、それとも。なんとか<施設>の敷地まで戻り、怜は自分を盾にしつつエントランスに鳴海を引き入れた。彼女の身体がドアの内側に転がったのを確認して、自分も倒れこむようにしてエントランスに戻った。空気を普通に吸えることが、ありがたい。
「綾瀬さん」
鳴海は立ち膝の格好で、息が荒い。怜は顔の水滴を両手で拭い、立ち上がった。後ろでドアが風に震えている。
「ごめんなさい」
吐き出す息とともに、鳴海は呟いた。
「何だか謝られてばかりだ」
怜は憮然と言い放った。何が、どうしたっていうんだ。
「これで、僕は帰れなくなりましたよ。傘も飛ばされてしまった。傘があったって、こんな嵐を帰ろうとは思わない。少なくとも嵐がおさまるまでは、帰れなくなりましたよ」
睫の先、鼻の頂、前髪、いたるところから潮混じりの水が滴る。
「綾瀬さん、行きましょう。風邪を引いてしまう」