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夏の扉

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 怜は窓に目をむけた。朝、ベッドから見えた空よりも、ずっと色が濃く、暗い。
「わかりません」
「そのとおりです。わかりません。何が普通か、そんなことを考えてはいけないのかもしれない。つねにものごとは変化していきます。それに乗っていける人と、そうでない人もいる。べつに変化についていく必要もない。しかし、ついていかなければ居心地が悪い。それだけのことです」
 稲村は左手にペンを持ち、クリップボードに挟んだカルテに、なにごとかを書き記していた。
「次は、金曜日ですね」
 一時間が過ぎたのか。自分が時間の流れに乗っていたことが、怜は不思議だった。止まっていたような、進んでいたような。時間は自分たちのことなどお構いなしだ。
「また来てくれますよね」
「ええ、僕はまだ稲村先生のピアノを聴いていませんから」
「憶えていたんですか」
「忘れるはずがありませんよ」
 稲村は愉快そうに笑う。つられて怜も、笑う。
「じゃあ白石さんのためにギターを用意しなくてはいけないな」
「先生が弾いてくれたら、弾きますよ」
「わかりました。練習しておきましょう」
 怜は席を立つ。稲村から処方箋を受け取り、一礼。
「雷には気をつけてくださいよ」
 部屋を出るとき、怜の背中に稲村の言葉が投げかけられた。怜は「ええ」とだけ答え、ドアは開け放したままで診察室を出た。廊下はひんやりとしていた。空気そのもの、匂い、壁、床、窓。みんなひんやりとしていた。待合室には、誰もいなかった。怜は処方箋を受付に提出し、指定席に腰を下ろす。
 煙草を一本喫って、それから帰ろう。
 街に。
 雨脚は、まだ強い。


   十四、オルガン

 向かって正面はエントランス。右手に伸びる廊下にはいくつかのドアが並んでいるが、灯りが点っていないために薄暗く、大学の研究棟を思い起こさせる、どこか陰気な匂いがする。エントランス自体はガラス張りだから、シャワーを全開にしたような表がよく見える。左手にも廊下が伸びている。トイレと、その入り口の前に公衆電話が置いてあるが、はたして通じるのかどうかは分からない。壁際に何か設置してあったらしい跡が見られるが、自動販売機でも置いてあったのだろうか。四角く跡の残る壁のこちら側が、二階へ通ずる階段だ。階段の中途に、彼女がいた。鳴海だ。
 怜は二週間分のトランキライザーを処方してもらうあいだ、手持ちぶさたに待合室とエントランスをうろついていた。まだ昼前だというのに外は、夕暮れ前の憂いを含んだ闇に似た香りが漂っていた。薬を受け取ったら、煙草を一本喫って帰ろう。雨脚を確かめようとエントランスのガラス越しに見ると、アスファルトを削る勢いで水滴が太い線となって降り注いでいたのだ。ため息をひとつ放り出し、踵を返したところで、彼女を見た。踊り場からじっと、彼を見下ろしていた。観測機器のレンズのような目をして。
「やあ」
 見上げ、怜は言った。ほかに適当な言葉が見つからなかった。雨が強いね、雷まで鳴っているんだよ。そんな言葉はポケットの奥深くだ。気軽に話しかけることができる雰囲気を、鳴海は持っていなかった。
「帰るんですか」
 鳴海の声が階段を降りてくる。彼女の姿はシルエットになっていたけれど、なぜか表情に乏しい瞳だけはよく分かった。
「ええ」
 首だけを踊り場に向け、怜の声は一段一段、階段をよじ登っていく。自分と彼女のあいだに、目には見えない薄い膜のような隔たりがあった。高さか、距離か。違う。沈黙した空気に、雨音が割って入る。石つぶてが当たるように、雨滴がガラスを叩いていた。
「次は、綾瀬さんですか?」
 身体も彼女に向けた。
「わたしは、午後」
「稲村先生の」
「ええ、そう」
 鳴海は踊り場から動こうとしない。降りてくるつもりで怜と出会ったのか。だか怜には、彼女が踊り場に立つために階段を降りてきたように見えた。踊り場までが、彼女たちの「世界」か。
 怜はどこかに言葉が落ちていないものかと探す。調査員の頃は、いやというほど「文明のカケラ」を拾い集めていたのに、海岸線に「言葉」はひとつも落ちていなかった。
「白石さん」
 受付が彼を呼んだ。怜は「失礼」とだけ言って、階段を離れた。気を後ろに向けたが、鳴海が降りてくる気配はない。受付の女の子にIDカードを差し出す。身分照会から医療費決済まで、すべてこれで用が足りる。女の子はリーダーにカードを通し、トランキライザーがつめこまれた紙袋といっしょに返してよこした。彼女の目も、鳴海と似ていた。やはり、<施設>の人間か。紙袋はジャケットのポケットに押しこんだ。女の子は再びキーボードを叩きはじめた。ちらりと手元をのぞきこんだが、ディスプレイの表示までは見えなかった。
 女の子がキーボードを叩くリズムに合わせるようにして、音楽が聞こえはじめた。ああ、初めてここに来たときに聞こえた、あのオルガンだ。子どもが数人で歌う歌の文句は、雨音にまぎれてよく分からなかった。どこから聞こえるのだろうか。
 エントランスに戻ると雨はいよいよ強くなっていた。風が加わり、横殴りのまさに嵐だった。
「帰れますか」
 声に振り返ると、鳴海はまだ踊り場にいた。怜が鳴海を向くと、彼女はゆっくり階段を降りはじめた。
「ここまで波が届いているみたい」
 怜の横に並んで、ガラスの向こうに目を細めた。並んでみると、鳴海の背は怜とさほど変わらなかった。
「海へ行ったことがあるんですか」
 怜は鳴海を向かず、言った。
「憶えていません。行ったことがあるのかもしれないし、ないのかもしれません」
「行かないほうが、いいかもしれない。いまの海は」
「海に行ったことがあるんですか」
「仕事で」
「お仕事で」
「ええ」
 歌声は続いていた。外は嵐なのに、ここは平和だ。
「あの子たち」
「えっ?」
「歌、聞こえませんか」
 鳴海は左手の廊下に首を回した。
「ああ、聞こえてます。子どもたちもいるんですね」
 鳴海は応えない。応えず、じっと子どもたちの声に耳を傾けているようだ。灯りの点っていない、昏い廊下の向こうから流れてくる、無邪気な歌声に。
「楽しそうだ」
 怜は呟く。鳴海に対してではなく、子どもたちにでもなく、歌声に。
「そうですか?」
 怜の言葉に鳴海が返した。驚くほど、鋭い響きで。
「違うんですか」
 怜は一瞬気おされ、鳴海の表情をうかがった。病的なほど白い肌、人形のように整った形の瞳、小ぶりな鼻梁。横顔に表情は見えない。
「……ごめんなさい」
 目を伏せ、鳴海は唇を噛んだ。
「どうして謝るんです」
「いえ」
 オルガンが止んだ。歌声も止んだ。雨と風だけが騒いでいる。鳴海は廊下を歩みはじめた。彼女は猫のように、足音をたてなかった。慌てて怜は鳴海についていく。ついていってよいものか、かすかに疑問を感じながら。
 公衆電話を過ぎ、数歩ごとの等間隔に並んだ窓を三つ数えた。窓はすりガラスで、だから廊下は薄暗い。鳴海は三つめの窓の少し先、学校の教室のような引き戸の前で立ち止まった。立ち止まったが、戸を開けて中に入ろうとはしない。小窓から中の様子をうかがうだけだ。
作品名:夏の扉 作家名:能勢恭介