夏の扉
「先生が雷に弱いなんて、意外ですよ」
怜はあの少女、鳴海のような平淡な口調で言った。背はさほど高くはないが、骨っぽい体つきの稲村が、よりにもよって雷に怯えるなど、滑稽にも思えたが。
「晴れた日にね、散歩をするのがいいんですよ。雨の日も嫌いじゃないが、雷だけは苦手ですね。それにこのあたりはただっぴろい平地だから、いつ自分に落ちてくるとも限らないですからね」
「散歩することなんかあるんですか」
「ときどきはしますよ。街の方までは行きませんが、そうだな、新琴似の手前あたりまでは足を伸ばすこともあるかな」
稲村の口から出た地名は、地下鉄とLRTを乗り換える、寂しいターミナルがある場所に近い。
「ずいぶん遠くまで行くんですね」
「遠いですか。そうかもしれないですね。それでも片道一時間もかかりませんよ」
適当にうなずいて、怜は煙草が喫いたくなった。鳴海にすすめられるまま、一本喫っておけばよかったかもしれない。
「稲村先生は、ここに住んでいるんですか」
さすがに診察中に煙草を喫わせて欲しいとは言えない。もうひとつ気になっていた質問をぶつけた。
「ええ。職員用の寮、とでも言えばいいかな、そういうスペースがあります。狭いですけどね」
「ここの職員は、全員そこに?」
「ええ。街から通うのは、遠いですからね、それこそ」
「僕は通っていますよ」
「辛いですか」
「いえ、辛くはないですが」
「当直もありますし、それを考えると、私たちは住んでしまった方が具合がいいんです。ここの人たちのためにもなりますからね」
怜の目を盗むようにして、左手のペンが動く。何をメモしているのだろう。
「聞いたところ、外来は僕一人だそうですね」
「ええ」
「前にはもっといたんですか、外来の人は」
言うと稲村は怜からほんのわずかに視線を外した。思いをめぐらせるように、答えを探すように。
「いましたけれどずっと昔です。僕がここに来たころはね」
「最近は」
「あなたは久しぶりです」
「こんなこと訊くのは、おかしいかもしれないけど」
「なんです?」
「どうして、僕はここに来るように言われたんでしょうか。僕は、そんなに悪いのですか。自分では分からない。ただ、ここに来るように言われただけです。こう言ってはあれですが、僕がここの前に通っていたところでは、もう一目でおかしい連中がいっぱいだった。もちろん僕がまともだなんて思ってはいないです。でも、連中よりはましだと思ってた。それに、ここに来て思いました。ここの人たちはいったいどこが悪いんですか。入院するほど具合がよくないようには見えない。いや、僕よりもまともかも知れない。どんな人たちがいるんですか、ここには。見たところ、この人たちが病気だとは思えないんです」
徐々に自分の口調がまくしたてるようなものに変わっていくのがわかった。稲村を前にすると、感情が揺れる。
「……白石さん。確かにあなたはおかしくはない。ただちょっと疲れているだけです。前の先生は、そんな白石さんを気遣ったのではないですか。あなたと同じように疲れた人たちが多く通ってくる街の病院では、あなたも辛いだろうと。なぜあなたが私たちのところへ来るように言われたのか、その真意は分かりません。わかりませんが……」
稲村はいったん言葉を切った。接続詞のように喉を鳴らし、ペンを置いた。
「あなたはここの人たちのどこが悪いのかと訊きました。なるほど、そう見えるのかもしれない。街の人にはね。しかし、やはりみんな違うのです。ここの人たちは、もうあなたたちが住む街では暮らせない。だからここで暮らしているのですよ」
「おなじことを言われましたよ、ここの人にね。僕の顔はまだ街の人間の顔だとも言われました。でも、何といったらいいのだろう、例えば仮に、僕がここで暮らしたいと言ったら、入院したいと言ったら、先生はどう言いますか」
稲村は膝の上で指を組んだ。鳴海がしていた、祈りを捧げているようなスタイル。
「ここは、白石さんが前に通っていた病院とは違います。私のような医者がいて、看護婦がいて、患者がいる。表面的には病院です。しかし、ここは、本当の所病院ではない」
「どういう意味です?」
「私が研修医だった頃は、措置入院や外来患者の治療もしていました。ずっと昔です。あなたが生れるか生れない頃の話です。しかしいつからか、ここは病院ではなく<施設>と呼ばれるようになりました。そして、いろいろな人たちが集まってきました。いや、集まったのではなくて、行き着いてしまった。ここにね。
私ももう、街の病院で患者さんの前に座ることなどはできません。ここがそうさせたのです。だから、ひょっとしたら私自身、街へは帰れないのかもしれない。知ってのとおり、この辺一帯は強制執行で捨てられた街です。ここにいる人たちも、ある意味捨てられた人たちです。捨てる主体は誰か、それは個々人ではなく、あえて言うならば時間に捨てられました。
白石さん、医者の私が話すべきことではなかったのかも知れませんが、つまりはそういうことだと理解して欲しい。私もあなたはここに住むべき人間ではないと思いますよ」
「では、どうして僕を受け入れたのですか。外来というかたちにせよ」
ふたたび稲光。稲村は身体をびくつかせることなく、きっとした目で怜を向いていた。小学校の教師にも、医師にも見えない、黒目と白目がくっきりとした澄んだ目で。
「紹介状を見せてもらったとき、正直とまどいました。こんなこと、あなたを前に話す言葉ではないのかもしれない。いや、ニューズや雑誌で、病気のことは知っていました。どんな病気なのかをです。私には病気とは思えなかった。様々な検査をへて診断できるような、という意味です。それぞれが異なっているからです。そこで、白石さんです。あなたもまた、病んでいるようには見えなかった。街の人間の顔です。どこにでもいる、ね。でも、どこかここの人たちに通じる匂いが感じられた。もしそれがなかったら、私はあなたの診察を初回でやめていたでしょう。治療の途中ですから、これ以上は言いません。いや、こんなこと言っている時点で、もう私は医師でもなんでもないのかも知れません。
ひとつ言えることは、あなたはまだ帰れる、ということです。それがあなたを引き受けた理由ですよ」
怜は何も言わなかった。稲村もペンを持とうともせずに怜と向かい合った。何が治療か、どこが病気か、すべてが曖昧で、だからこそ得体が知れない。怜の身体が震えた。
「僕は、帰れる。……帰りたくなくてもですか」
喉から絞り出した声は掠れていた。
「帰りたくないのですか」
「ここにいられるなら」
「ここにいたいのですか」
怜はうなずくことも、首を振ることもしなかった。
「すみません、僕は先生の話がよく分からなかった」
「いえ。私の方こそ、おかしな話をしてしまった。忘れてください」
指を組む稲村の顔は、元の柔和な医師のものに戻っていた。雨脚はまだ強く、空電音のようなノイズが怜の耳に染みてくる。
「白石さん」
「はい」
「何が普通か、何が普通じゃないか。そんなことを考えたことはありますか」
チェロを思わせる、暖かい声だ。
「普通とは、いったい何なのでしょう」