夏の扉
「ここで、ですか」
「ええ」
「……いないと思います」
「稲村先生も、喫いませんよね」
「わかりません」
少女は膝の上で指を組んでいた。医師のそれと違い、細く、しなやかだ。
「わからない……」
「わかりません」
ひときわ強く、雨が窓を叩いた。細かな砂粒が吹きつけているような音だ。
「このあいだ、僕が上で食事をしたの、知ってますか」
「ええ」
「いっしょにいた女の子、友達なんですか」
そう言うと、少女ははじめてこちらを向いた。機械仕掛けの人形のような、そんな動作だった。
「友達……ですか」
少女は目を伏せる。言ってはいけないことを口に出したのかと、怜の背中にじわりと汗が湧いた。
「あの、ショートヘアの女の子に、言われました。僕は『街の人間』だってね。そう見えますか」
怜は自嘲混じりに言ったつもりだが、どう聞こえたのか、少女は目を伏せたままだ。
「有田さん、て言いましたっけ。あのおばあさんにも、似たようなことを言われました」
怜が言い終わると少女はそっと視線を上げた。
「わかりません」
「え?」
「あなたがどんな人なのかは、わたしには分かりません」
「ああ……、つまらないことを訊きました。ごめんなさい」
「あやまらないでください。あやまるのは、わたしの方です」
そのとき少女はひどく悲しい顔をした。怜は二の句がつげずに、また鼻を鳴らした。
「明日香ちゃんは、ちょっと変わってる子なんです。わたしが言うのもおかしいですけど」
「え?」
「髪の短い女の子です。西さんっていうんです、名前は。ちょっと変わっているけど、でもいい人です」
抑揚がないのは相変わらずだが、彼女の言葉には少しずつ、生気が感じられた。
「いい人、ですか」
「いい人です。……ここには、悪い人はいません」
言ってから、少女は目を伏せた。
「あの、有田さんとも、話はするんですか」
怜はつとめて感情を抑えた。彼女にあわせたつもりだ。
「有田さん。……、明日香ちゃんたちは、ときどきお話しているみたいです。わたしは、挨拶くらいしか……」
掠れ気味に続ける彼女の言葉。最後に聞き取れないほど小さく「辛いから」と、そう言った。怜にはそう聞こえた。つらいから。
「ここに来て、もう長いんですか」
怜はもうおなじみになった文句を、彼女にぶつけた。無遠慮に聞こえないよう、なるべく低く、静かに。
「わたしですか?」
「……あなたです」
少女は少し考えこんだ。入所してからの時間を数えているのか、それからの、それまでの時間を思い起こしているのか。
「もう、五、六年にはなると思います」
「そんなに?」
「長いですか。長いんですね」
細い指に力がこもった。指を組むというより、何かに祈りを捧げてる風にも見える。
「失礼だけれど、僕には、あなたがそんなに悪くは見えません」
「そうですか?」
声にならない声。しかし、怜には少女が患者だとは到底思えない。キーボードを叩きつづける受付の子の方が、よほど奇異に見える。
「ええ、あなたは少なくとも僕よりもまともに見える。いったいどこが悪いんですか」
少女は顔を上げ、そして目を細めた。眩しい空を見上げるように。
「わたしには、『ものの終わり』が『見える』んです」
「『ものの終わり』?」
怜が聞き返しても、少女は答えなかった。きょうは雨音にまぎれて、受付の子のキータッチは聞きとれなかった。
雨はまだ降り続いている。どれほどの水が空に浮かんでいるのか。考えれば自分たちは水の中に住んでいるのといっしょではないか。海水位が上昇して、街が海の飲まれても、最初から自分たちは水の中で暮らしているのではないか。
「ごめんなさい、またくだらないことを訊いてしまった」
怜は頭を下げた。上司以外に頭を下げたのは久しぶりだ。
「いえ」
少女は顔を伏せ、短く言った。
「白石さん」
稲村の声が廊下の角を曲がってきた。きょうはいつもよりも待たされた。
「じゃあ、僕は行ってきます」
席を立つ。少女は何も言わず、顔を伏せたままだ。
「あの」
怜の呼びかけに、少女はそっと顔を上げる。
「もしよかったら、名前聞かせてもらってもいいですか。僕は白石怜っていいます」
場違いなくらいに愛想よく、怜は言う。似合わないのがわかっている笑顔まで作って。
「綾瀬です。綾瀬鳴海」
怜に応えたのか、少女も微笑み名乗る。でも彼女の笑みは、その表情が持つ本来の意味とは逆に見えた。笑顔がひどく悲しい。
「白石さん」
稲村のよく通る声は、角を曲がらずに向かいの壁にぶち当たり、跳ね返って怜の耳に届く。
「それじゃあ。ありがとう」
軽く手を挙げ、怜は鳴海に背を向ける。彼女の応えは聞こえなかった。雨音にまぎれたのか、それとも声にならない声だったのか。背を向けてしまった怜に、鳴海の姿は見えなかった。
十三、シロツメクサ
ミルクの空き瓶にはシロツメクサの花束が生けてあった。きょうの稲村は、白と青の細いストライプが入ったボダンダウンに、赤と紺のストライプのネクタイを締めていた。医者にしてはずいぶん派手だ。
雨音は聞こえていたけれども、診察室の窓に水滴は見られない。繁る葉がぐっと窓をふさぐようにせり出していて、空は見えなかった。稲村が「こんにちは」と怜に挨拶したとたん、フラッシュライトが窓の向こうで光った。誰かが外から写真を撮ったのかと、怜は本気で思ったが、数瞬ののち、雷鳴が轟く。まだ遠い。人家の少ないこのあたりで落雷する場所といえば、荒れ地に点々と並ぶ送電塔ぐらいだろうか。電線はあちこちで切断され、送電塔に落雷しても、電気が通っていないのだから停電の心配もなかった。原子力発電所が水没してからこっち、<機構>は市の電力のほぼすべてを、水力と風力、光発電に切り替えた。太陽電池パネルは建物の屋上に、発電所は<団地>のさらに山側のダム、そして近い将来海岸線となる高台に巨大な風車が建設されたから、このあたりを通る送電線は、文字どおり前世紀のモニュメントだ。
ここは電力を自給しているのだろうか。<機構>が供給する市街地の電力は、ときどき供給を需要が上回り、停電する。<団地>ではそうでもないが、変電設備が老朽化しつつある旧市街では深刻化していた。ここでは一度も蛍光灯が明滅したことがないわけだから、風力か太陽光か、おそらく自家発電を行っているのだろう。
「これは本式だな」
稲村は半身を窓に向け、ひとりごちた。
「外は、だいぶん雨が強いですかね?」
怜に向きに直り、言う。もう彼の診察ははじまっている。
「ええ」
「白石さんの家のあたりも」
「そうですね。出てくるときは、結構強い降りだったけれど」
「いやぁ、私ね、雷はあまり得意じゃないんですよ」
そう言って稲村は幅の広い肩をすくめてみせた。「建物の中にいればいいけれど、外になんかは頼まれても出たくないですね。白石さんはどうです?」
「べつに、それほど苦手でもないです。出先で降られることはときどきありましたから」
「いちいち怯えていたら仕事になりませんか」
「そんなところです」
すでに稲村は左手にペンを握っている。怜は自分のカルテに何が書いてあるのかが、気になった。