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夏の扉

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 怜が住む<団地>の十五階では、雨音は聞こえない。水滴が叩くアスファルトははるか眼下で、てんでにリズムを刻むはずの屋根は、十メートル以上上方だ。もっともコンクリート製の屋根では、嵐の晩、家主をたたき起こそうと雨粒がいくら騒いだところで、その音など届くはずもなかった。
 覚醒しているのか、それともまだ眠っているのか、目覚める寸前は思考も視界もなにもが曖昧で理屈が通じない。彼の部屋の窓は、雨粒が侵入できるほどには開かないし、彼の寝室の窓は嵌め殺しだ。それでも怜は窓を探していた。彼が勝手にイメージした窓は、たてつけが悪くて薄っぺらい、引き戸式の窓だった。
 目覚し時計が苦手だった。生活が不規則になりがちな調査員に任命されてから、彼は目覚し時計を枕元に置くようになった。学生の頃はオーディオにタイマーをセットして、FMか音楽で一日をスタートさせていた。調査員となり、観測機や集塵フィルターを抱え、うち捨てられた街をさまようようになってからは、帰宅すると泥のように眠り込んだ。そのせいで、恋人にゆすられる程度では目覚めなくなってしまった。暴力的な音が、彼を覚醒に導く道具足り得たのだ。
 怜は電子音が苦手なのだ。観測機器が発する音も、電車到着を告げるプラットホームのベル、デジタル時計の時報、電話、はては駅前の地球ゴマが定時に鳴らすオルゴールまで、すべて彼の神経を逆なでする。なかでも目覚し時計は最たるものだ。まるで身体が気体でできているのかと錯覚しそうな朝のひとときを、けたたましい電子音で覚醒させられるのはたまったものではない。だから怜は、旧市街を歩きまわって、昔ながらの金属製のベルを派手に鳴らす時計を買った。その時計が枕元で目を覚ましていた。
 まるでばね仕掛けの人形のように、怜は跳ね起きた。午前九時。完全な遅刻だ。きょうは火曜ではないか。火曜の始業は八時四五分だ。今から登庁しても一時間近い遅刻になる。細面で何を考えているのか分からない上司の顔がよぎったが、そこで怜は苦笑した。何を慌てているんだ。調査員の任を解かれてもう一月近くになるというのに。
 ナイトテーブルの灰皿をたぐりよせ、箱から一本煙草を抜き出して火を点ける。途端に空調が作動して、目覚し時計が時を刻む息吹をかき消した。
 目覚める直前に聞いた雨音が、今も怜の耳に残っていた。ニコチンが頭に回る。眩暈を感じつつ、ブラインドを上げた。その向こうに錆色の工場が広がっていることを、心のどこかで期待している自分にもういちど苦笑する。窓の向こうには十七号棟が見えるだけ。だが怜はふらりと立ちあがる。窓に水滴がついていたからだ。
 雨だ。
 十七号棟の屋上の向こうに、鉛色の空が見える。そこから雨粒が落ちている。秋の終わりに降るような、大粒の雨だ。それが怜の部屋の窓を叩いていた。窓辺に歩み寄り、怜はガラスに額を寄せた。自分の呼気で窓が曇る。半分ほど喫った煙草は灰皿でもみ消して、怜は窓についた水滴を指でなぞった。透明で、どこかの芸術家がこしらえた作品のように、完璧なかたちをしていた。その雨粒は、すすんで傘を捨てようと思わせないくらいの不純物が含まれているというのに、怜はしばし雨粒を数えた。
 きょうは、稲村との面談だ。機材を抱えて濡れネズミになるよりも、精神科医と世間話をしている方が、まだましだ。


   十二、雨

 傘をたたみ、二、三度振って水滴を払う。<施設>に一歩入ると、前世紀の匂いが彼を迎えた。それぞれの建物そのものに染みついた、いわば体臭のようなものだ。<団地>には不思議とそれが希薄だった。傘は玄関の傘立てに。外来は怜ひとり。リノリウム張りのエントランスを突っ切って、受付で来訪を伝える。女の子はいつもと変わらず、ギーボードを叩いていた。いったい何を入力しているのか、彼女は一心不乱にキーボードを叩く。指が止まるのは、怜の来訪を稲村に告げるため、内線電話の受話器を取るときだけだ。怜はふと、彼女もここの入院患者なのかと思う。そういえば、<施設>の事務員や看護婦たちはどこに住んでいるのだろう。玄関前に設けられた駐車場には一台の車も見られないのだ。稲村を含め、職員全員が住み込みか。案外規模の大きなこの建物に、職員用の居住スペースがあったとしても不思議ではない。
 雨でしっとりと湿気をおびた髪に、怜は手櫛をとおした。LRTを降りてからここまで、いくぶん潮風が強かった。もともと強い髪のため、いちど癖がつくとなかなか直らない。指先で弾くようにして額に垂れた前髪を整えた。そして怜の指定席を向くと、先客がいた。
 彼女だ。
 肩まで伸びた黒い髪、猫背気味の後ろ姿。怜がいつも座る場所の反対側、あの「四つの窓」にほど近い席に、彼女はいた。声をかけようかとも思ったが、ショートヘアの女の子の、あの鋭い声音が聞こえてくる。怜は小さく鼻を鳴らし、灰皿前に腰を下ろす。煙草はけさ部屋で喫った一本でじゅうぶんだ。だから足を組んで、じっと窓の外を向いた。雨が緑の芝生を洗っていた。ここは、雨音がよく聞こえる。
 稲村との面談は火曜日と金曜日、午前一〇時半の約束だ。初めてここを訪れたのは、金曜日の午前一〇時過ぎだった。LRTの接続時間を考慮してくれた時刻なのだろう。それより早い時間だと、九時よりだいぶん前に到着してしまう。なんとも不便な場所に<施設>は建っているが、考えればかつてここは住宅街から五分と離れていなかったのだ。老婦人がここの住人となった頃、確かに<施設>は市街地に建っていたのだろう。
 椅子の背にもたれたとき、ぎしりと音をたてて軋んだ。軋みは無遠慮な音だった。まさか<施設>完成から一度も交換されていないということはあるまい。いや、建物に染みついた匂いから考えれば、ありえる話だ。ここが患者や家族で埋まった時間があったのだろうか。手持ちぶさたな待ち時間、怜の思考はいくらでも展開する。
「きょうは、喫わないんですね」
 あまりに唐突に聞こえた声に、怜は幻聴かと疑った。調査員時代、浜辺で聞こえもしない声を聞くなど、日常茶飯事だったからだ。だが、透明で平淡な声は、実体を持っていた。
「わたしに遠慮しなくていいですよ」
 少女は窓を向いたまま、ひとりごとのように呟いている。
「憶えていたんですか」
 怜も視線を窓に向け、言った。
「何をですか」
 少女が応える。彼女の声には抑揚がない。
「いえ、僕のことです」
 ぱらぱらとガラスを叩く水滴が、筋になって流れていた。雨脚は強くなっている。天気予報は聴いてこなかったが、一月前までの同僚たちが恨めしそうに空を見上げる姿が浮かんだ。
「迷惑でしたか」
 少女の声はかすかだが掠れていた。
「何がです」
「いえ」
 それっきり、少女は口をつぐんでしまった。怜は再び言葉を探した。ここではよく、言葉を探してしまう。自分のポケットには、いったいいくつ言葉が入っているのか。おそらく片手でつまみ出せる程度しか、自分に手持ちはないのだろう。これからは落ちている言葉を見つけたら、すぐに拾うことにしよう。
「煙草、いやじゃないんですか」
 今度は少女を向いて、怜は言う。
「大丈夫です」
 彼女はこちらを向いてはくれなかった。
「誰か、喫っている人がいるんですか」
作品名:夏の扉 作家名:能勢恭介