夏の扉
怜は街を縦断する川を渡る。秋になれば無数の鮭が遡上したという、川。川の両岸には自動車道が整備されていたが、走る車が見られなくなってから、道路は雑草が生えるのにまかせていた。並ぶマンションから住人が消えて久しい。
怜が生まれ育ったのは、この街から特急電車が走っていたなら一時間半ほどで到着できた、海を抱く製鉄の街だった。父親は製鉄所に勤務し、家の窓からは巨大な機械そのものといった風情の工場が見渡せた。幼い日、両親と砂浜で遊んだ時間が懐かしい。わずか二〇年前の風景が、すっかり風化してしまった。裸足の裏で鳴いていた砂がの感触は、いまでもまだはっきりと憶えている。岬から眺めた円い水平線や、高台から見下ろした錆色の街並みが、怜の胸のどこかでちりちり泣いている。あの街も、もう水の底だ。砂が鳴く海岸線も、もう二度と歩くことができない。今、彼の両親は強制執行で家を離れ、丘陵地帯に建設された<団地>で、細々と暮らしている。水没したかつての自分たちの世界を見下ろしながら。
川を渡りきり、あの老婦人が昔暮らしていたという地区に入る。オリンピック選手村は、今でもまだ地下鉄真駒内駅前に残っている。新しい<団地>に移住した人も多いが、ここで暮らす人もまた、多い。街角のところどころに、自動小銃を抱えた武装警官が退屈を隠そうともせずに突っ立っている。<団地>の中では滅多にお目にかかることがない彼らは、旧市街を歩くとそこここで姿を見られる。<機構>が治安の悪化を警戒して配置しているのだ。幸いこの街での治安の悪化は、当初懸念されていたほどではなかった。東京や大阪に比べて難民人口がはるかに少なく、また強制執行による移住がスムーズに進んだためだ。だから怜は、つてで手に入れた護身用の銃をほとんど持ち歩いたりはしない。
休日の朝、目覚めた怜は、<施設>の談話室ではからずも同席した老婦人の表情が、夢の続きを見ているように蘇った。空調の稼動音を聞きながら最初の一服をつけたとき、今日はあの老婦人の記憶が閉じ込められた街を、ぶらりと歩こうと決心していた。彼女にとって、まだ街は「鏡」なのだろうか、と。
老婦人が「老婦人」ではなかった頃の街と、怜の瞳に映る「現在」は、きっと相当な隔たりがあるに違いない。海に近い旧市街とくらべこのあたりは幾分標高があるから、仮に地球上の全氷床が融解でもしない限り、水没するようなことはないだろう。だからこうやって住人がまだいる。しかし捨てられたアパートや住宅はいやでも目についてしまう。例えば老婦人が<施設>を出たとしても、怜は彼女をもとの自宅に案内する役だけはごめんだった。心の問題だけではない、もうここは、彼女の街ではない。
駅前から少し離れ、真駒内公園に向かう。老婦人も、あるいは少女時代にこの道を歩んだかもしれない。休日、両親に連れられて。
公園への通りは、まだ荒れてはいなかった。きちんと整備されているらしく、アスファルトの路面を車が走る姿も見える。老婦人がここに住んでいた頃と決定的に違うのは、道路沿いを歩いても、排気ガスに顔をしかめることがなくなったことだろう。車は音も立てずに走り去る。でも怜は、不潔で騒々しい、前世紀の遺物が好きだ。ガソリンの匂いを、彼は嫌いではなかった。
街路樹が芽吹き、おもいっきり枝を伸ばしている。これだけ道路が整備されているのだから、定期的なせん定は行われているのだろう。それでも今怜が歩く道路に、枝葉はトンネルのようにかぶさっている。コンクリートのトンネルは味気がないが、樹々のトンネルは胸がすく。ここならは老婦人を連れてきても、顔を曇らすことはないだろう。怜は公園に入る。
日曜の午前。暖かな春の日がはしゃぎまわる芝生。先ほど目にした武装警官の鈍い輝きをエッジに走らせていた自動小銃が、ひどく冷酷に、無表情に、威圧的に思われた。この街で誰を撃とうというのか。
芝はひんやりとしていた。しっとりと湿気を帯びていて、腰を下ろし、掌で感じたそれは、場違いなくらい艶めかしい。怜は両足を放り出し、広くなだらかにうねる芝に目を細める。公園の彼方に<団地>が見えているのに、違和感がない。いかにも人工的な場所に自分は座っているのに、遠くあれほどフェイクの香りがいっぱいの<団地>が見えるのに、気分は穏やかだ。芝の上を駆けていく白い犬と子どもたちが、きっとそうさせているのだ。
怜は談話室できっぱり、自分を「街の人間」だと言いきったショートヘアの少女の顔を思い出す。老婦人の言葉とともに。
怜は<施設>を出、LRTに揺られて時速六〇キロのスピードで自分の街が近づくにつれ、不思議な安堵がこみ上げてくるのを、じっと目を閉じて感じていた。確かに自分は安堵していたのだ。人工的で、冷たく、管理された自分の街に帰っていくことに。自分の世界に返っていくことに。しかしそれは電車に乗っているあいだだけだった。エレベーターに乗り、自室のドアに鍵を差し込んだ瞬間、またあの絶望がふっと彼の身体をさらうのだ。
自分の住む世界と、<施設>で暮らす彼女たちは、実際鏡なのだと怜は思う。両方を行き来して、それははっきりと分かる。どちらが正常か異常かは、怜には分からない。自分の世界は狂っている。表情がすっぽり抜け落ちた異世界の巨人を思わせる<団地>を見上げ、それだけは痛感する。この世界は狂っている。そこで暮らす自分たちもまた、狂っていると。しかし、<施設>ひとたちがまともだろうか。それも違う。老婦人が言ったように、彼女たちもまた狂っている。狂ったものどうしが鏡をのぞきこんでいるのだ。だから案外、見えているのは狂ったお互いの顔なのかもしれない。
芝に大の字になってみる。首筋や背中に葉先が刺さってちくちくとする。自分はまだ痛みを感ずることができるのか。目を閉じると、赤や青のわけのわからない波紋が瞼の裏に踊った。目を閉じると聴覚が鋭敏になる。全身を通し、芝を駆ける子どもたちの息吹が意外に近くに聞こえる。この空気を震わす轟音は何だ。かすかに目を開けると、ふた筋の真っ白い線が、青空に描かれていた。空軍の戦闘機か。その姿はしかし、あの武装警官の自動小銃ほどに無粋ではかった。ふた筋の飛行機雲(コントレイル)は、あまりにも白すぎた。青い空に、美しすぎた。怜はまた腕を伸ばし、コントレイルを指でつまむ。海へ向かって飛ぶ、二機のジェット戦闘機もろとも、右の手でつかむ。だがふた筋の白い線は、怜の掌を貫通し、どこまでも青い空を、一直線に横切っていくのだ。そこがあたかも別世界だと言わんばかりに。
神様のキャンバスか。
そんな言葉が、よぎって消えた。
十一、午前9時
エアコンが稼動しているというのに、目覚めた怜は雨の匂いをかいでいた。目覚める寸前、夢と現実が交差する曖昧な時間、彼は確かに雨音を聞いていた。徐々に思考が帰っていくあいだ、怜は(窓を閉めなければ)としだいに輪郭を整えていく天井を眺めつつ、考えていた。寝る前、僕は窓を開け放っていたのか。