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夏の扉

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 老婦人は自分のカップにサーバーの残りの紅茶を注いだ。もう湯気は立たなかった。
「それでわたしに訊いたのね」
「ええ。でも忘れてください。くだらない質問でした」
「わたしたちはやはり、あなたがた街の人たちとは違います。……狂っている、そう、わたしがあなたくらいの歳の頃は、平気で言われたものです。わたしはそのことを否定しません。ここの人たちはみんなやはりどこかおかしいからです」
 怜は老婦人の言葉を否定しようとしたが、彼女は軽く手をあげ彼の言葉を制した。
「あなたたちとわたしたちは、広い川の両岸に立って、お互いに背を向けているのです。そこに川が流れていることもわかりません。見えるのは、自分たちが住んでいる世界だけです。流れる水の匂いも、お互いが別に感じます。それを共有はできないのです。
 鏡がなければ自分の顔は見えません。ですから自分の顔が分かるのは、他人だけです。ちょうどこことあなたがたが暮らす街は、その鏡のようなものだと思っています」
 ずっと本のページを繰っていた女の子がかわいらしいくしゃみをした。それに驚いたのか、ノートを広げていた少女が床にカラフルなマーカー類をぶちまけてしまった。頬杖をつき、胸像のように固まっていた女性が席を立ち、床に散らばったマーカーを拾っていた。
「でも、あなたは鏡を必要としない人なのかもしれないわね」
「鏡、ですか」
「ええ、鏡です」
 カップ、下げてきましょうね。そう言って老婦人はしばしテーブルを離れた。怜は数分前までと今では談話室の見えかたが変わってしまったように思えた。白い壁も青い床も磨きあげられた窓も、はじめて階段を上がってこの席についたときとは、感ずる色が違っている。
 窓ガラスをのぞく。日が照っているから当然、自分の顔ははっきりとはそこには映らなかった。
 鏡。
 しかし怜は、老婦人がいったい何を言いたかったのか、分からなかった。空に向かって腕を伸ばしても、雲にとどく前にガラスにぶち当たってしまったように、老婦人の言葉がつかめなかった。


   一〇、コントレイル

 <団地>の自室を出る。ドアノブとその上方の二ヶ所に鍵を突っ込み、施錠する。二基あるエレベーターは両方とも一階で停止中。ボタンを押すと二号機が上昇してくる。ホールに漂うのは、かすかに湿気を帯びた独特の匂い。塗料のような、生乾きのコンクリートのような、そのどちらもが混じった、けっして心地よいとはいえない匂いだが、怜は気がつくとこの匂いに馴染んでいた。部屋を出たときと、出先から帰宅したとき、そのときだけ匂いを感ずることができる。
 階数表示が「15」で止まる。音もなくドアが開き、白い光にあふれる箱に乗りこむ。エレベーターでほかの住人たちと出くわすことは少ない。調査員時代も定時出勤ではなかったため、十八号棟にどんな人々が住んでいるのか、よく分からなかった。
 怜はエレベーターが下降する際のマイナスGが苦手だ。内臓が見えない力で突き上げられるようなこの感覚が、どうにも好きになれない。同僚にこの手の加速度が好きだという人間がいた。環境調査の仕事には、空軍が飛ばす観測機に同乗し、高々度での様々なデータを採取するというものがあり、怜は従事したことがなかったが、その同僚はどんな手を使うのか、観測機同乗の仕事にはたいがい出かけて行っては満面の笑みで帰ってくる。エレベーターでこの状態だ、自分はどう転んでも地べたをはいつくばる仕事しか向いていない。それにわざわざ空を飛んでまで、三ヶ月に一度もの頻度で書き換えられる地図のできを確認したくはなかった。
 <団地>はほぼすべてが高層建築だ。低いもので十階建て、近年建設された建物だと、二十階をこえるものは珍しくない。だからエレベーターはいずれも高速型だ。上昇はいい。だが下降は何年住んでも好きになれない。怜は壁にもたれかかり、じっと目を閉じる。一階まではたった十数秒だ。待てばいい。ひょっとすると自分は、閉鎖された狭い箱の中じたいがいやなのかもしれない。そんな思考は、やがて悪夢へとつながっていく。捨てられた街、広大な荒れ地、墓標のように並ぶ電柱と架空線、街灯、伸び放題の雑草と巨木と化した街路樹。ただひとり所在もなく立ちすくみ、耳に届くのは潮騒だ。足元を見ると水がひたひたと迫ってくる。泥水だ。いやな感触とともに靴の裏が泥にめりこみ、街は広大な湿地に変貌する。そして怜は目覚めるのだ、自らのうめきと大量の汗とともに。
 一階のエレベーターホールは静まり返っていた。日曜日。ああ、今日は日曜日か。
 外は晴れていた。休日の午前、出歩く人はまだ少ない。十五号棟と同居する郵政公社は、堅くシャッターを閉ざしていた。樹々の枝は新緑が茂っていた。まだ生れたての葉は、つややかなぶどうの実の色を思わせる。<団地>内を吹き抜ける風が低い唸りをあげていたが、遠くからカッコウのさえずりが耳に届いた。もともと山の斜面に建設された街だから、二十号棟のすぐ背後は森なのだ。雑多でちぐはぐな音を背に、坂道を下る。
 地下鉄駅前は人通りがあった。笑顔もあった。休日を楽しもうと、家族連れの姿が見える。郊外へ向かえば、まだ昔と変わらない風景と空気が残っているはずだ。山間部はずっと昔から変わらない。もちろん気温の上昇で植生は変化しつつあったが、些細な変化に過ぎなかった。怜は足を止め、彼らが自動改札の向こうへ消えていくのを見送ったりした。地球ゴマが回転している。時代遅れの冷蔵庫のサーモスタットが稼動しているときのような鈍い唸りを上げながら、一分二四秒で一回転。怜は駅前広場を横切り、旧市街へ下る坂道を行く。
 坂を下っていくと、懐かしい匂いがする。このあたりは強制執行がかけられていない。海水位の上昇は、まだこのあたりの標高を見逃してくれているからだ。怜は調査員に任命された直後の研修を思い出す。新人研修では環境の激変について、三ヶ月に渡る講義を受講させられた。大量に排出された二酸化炭素や太陽を凶暴化させたクロロフルオロカーボン、深海から湧き上がってくるメタンガス。この半世紀に平均気温は五度も上昇した。前世紀の科学者たちは、その程度の気温変化においては、海水位のめだった上昇は起こらないと考えた。せいぜい、浜辺に並ぶ海の家が漁礁になる程度だろうと。ところがどういう作用が関係したのか、怜が産声をあげた頃から、海水位は静かに上昇しはじめた。そう、地球上の全淡水の四○%をためこむ氷床が、融解しはじめたのだ。熱膨張と氷床の融解。その結果が、いやその過程が、今だ。水没した国、地域は数知れず、それにともなう混乱が混乱を呼んだ。低緯度地域では、海水の蒸発が盛んになった結果、巨大な嵐が頻繁に発生するようになった。そして怜が学校を卒業する頃には、世界中から砂浜が消えていた。海水位が一センチ上昇すると、砂浜は一メートル後退する。海岸沿いの街が水没するくらいだ、砂浜という言葉は、百科事典と人々の記憶でしか生きることができなくなった。
作品名:夏の扉 作家名:能勢恭介