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夏の扉

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 鳴海は芝生に立ったまま、涙を流した。こぼれる涙は望んだとおり、芝生に小さな海を作った。その海がやがて街を覆うのかもしれない。人々の悲しみが、寂しさが、楽しかった思い出が、人々の記憶が、すべて海になって街に流れ込み、街を包みこむ。鳴海は涙を流す。
「いいのよ。鳴海さん。……あなたは優しい子です」
 かぶりをふった。
「有田さん……」
もっと、近くに来て欲しかった。歩み寄れなかったから、歩み寄って欲しかった。
「ありがとう」
 老婦人は変わらぬ微笑で、言った。
「花が咲くのが、楽しみだわ」
 老婦人はそう言って、笑った。
 鳴海のにじみ流れ出る視界の向こうで、老婦人が笑っていた。
 白い部屋の扉は、開いたままだった。閉じようとはしなかった。
 鳴海はだまって、後ろに立つ怜と並んで、扉の向こうを見つめていた。


   五三、雲の渚

 それから四日ほど雨が降った。怜は部屋から出なかった。気象通報が、はるか南の海上で台風が発生したことを告げていた。空調を切った部屋は湿っぽく、窓はうっすらと曇っていた。シリアルをかじりながら、雨滴がびっしりとついた窓を眺め、風の音を探した。けれど、風の音は聞こえなかった。
 台風は列島を掠めただけだった。それでも海峡より南の地方では、被害が出ていた。北海道は、ただいつもより強い雨が降っただけだった。部屋にいる間、怜は朝と夜、気象通報を聴いた。抑揚のないアナウンサーの声をベッドの上に転がって聴くと、ふと自分の部屋が<施設>の誰かの部屋に思えた。それはおそらく、明日香がいつも気象通報を聴いているからだ。彼女が実際に気象通報を聴いている姿を見たことはなかったが、想像はついた。
 五日目に晴れた。怜は食糧の買出しに部屋を出た。さすがにシリアルばかりの食事に飽きてしまった。エレベータに乗るのも五日ぶり。地上に降りるのも五日ぶりだ。
 エレベータを降りて、建物を出、空を見上げた。
 反射的に目を細めた。霞みひとつない空と地面の間の空気は、磨き上げたガラスの窓よりも透明で、太陽がまぶしかった。雨は夜半過ぎまで降っていた。だからこんなに空気が澄んでいるのだ。
 アスファルトはまだ湿っていた。空は高く、雲はまばらで、日の出は日に日に遅くなる。夏の扉がもう半分以上閉じている。しかし太陽はまぶしい。水溜りも草の露も、みんなあと一時間もすれば乾いてしまうのだろう。怜は駅へ向かう道を行く。
 旧市街が見える。怜は旧市街を望む連絡道路に曲がる手前、ほんの少しよからぬ期待をしていた。ここ数日の雨で、旧市街地がすべて水没し、この道から見える風景ががらりと変わり、見えるはずもない水平線が、すぐ目の前に見えたなら、と。青空を照り返し、真っ青に水面をたたえる汽水湖が、目の前に広がっていたなら、今日はこのまま湖畔を散歩しようと。
 坂道は下り、そのまま旧市街地につながっていた。海はまだ、近くて遠かった。
 郵政公社のシャッターはまだ閉じられていた。駅前だ。地球ゴマが鳴っていた。午前八時。そこで怜は苦笑した。
 まだマーケットは開店していなかった。
 空腹だった。これならシリアルを食べてから出て来るべきだった。時計を見ていたのに、マーケットが何時に開店しているのか、すっかり忘れていた。いや、案外知らなかったのかもしれない。午前の早いうちに買い物に出かけることなど、普段、まったくなかったからだ。
 怜は煙草も置いてきたことに気づき、しかし灰皿など駅前のどこにも見当たらないことを思い出しながら、地球ゴマに腰かけ、苦笑した。
 そう言えば。
 今日は、最後の日だった。
 <施設>を、怜はなぜかひどく遠くに感じた。

 長い休暇が終わろうとしていた。
 怜は電車に揺られていた。陽射しを膝頭に感じ、つま先もほんのりと温かい。初めて<施設>を訪れた日の陽射しとよく似ていた。
 そうだ。夏至をはさんでちょうど、いまとあの日は鏡のように向かい合っている。そして一抹の不安と、ともすれば自暴自棄で絶望的な気持ちを抱えて、自分はこの電車に揺られていた。ポケットに紹介状をひそませて、怜は往路、この電車に揺られていた。いま、怜は復路、電車に揺られている。
 進行方向とは逆に、港湾道路が地平に向かって延びている。遠ざかっていく。電停のポールはもう見えない。結局、あの電停はただの通過点に過ぎなかった。電停の向こうに広がる別の日常に期待したこともあった。明日香のぶっきらぼうな声が聞こえてくる。怜は目を閉じた。
 レールのきしみ、モーターの音、転轍機を越える音。陽射しが暖かい。今を八月の終わりだと思うか、三月の終わりだと思うか。どちらでも。
 稲村は素っ気なかった。ねぎらいの言葉も励ましの言葉もなかった。いつもどおり、ドアを開けたままで退室するよう釘をさし、いつもと違ったのは、もう処方される薬がないのだということだけだった。それ以外は本当にいつもと変わらなかった。来週も、再来週も、このペースで通院が続くのかと思えるような、まったくいつもとかわらない診察だった。
 診察室を出、廊下を進み待合室に戻ると、長椅子に鳴海がいた。怜に気がつき、微笑んだ。春のいつかに見た微笑だった。中庭でステップを踏む彼女が見せた、今思え貴重で残酷な、鳴海の笑顔だ。
 怜は鳴海の隣に少し離れて座り、煙草を一本抜いた。
「まだ禁煙じゃないですよね」
 鳴海に訊いた。
「大丈夫ですよ」
 オイルライターは点火するとき、いつも大きな音をたてる。青い螺旋と、かすかな苦味。
「次は、そうか、鳴海さんか」
 ふた口ほど喫ってから、怜が言う。
「ええ」
 鳴海は中庭を向いたままだった。青いほどに白い肌。つやのある髪、華奢な首。髪は最初に対面したときよりもずいぶん伸びているかもしれない。それは怜も同じだった。休職してから今日まで、一度も髪を切っていない。そろそろ、手入れ時だ。一週間後にはもとの仕事が待っている。
「雨が降ったね」
 灰を落としながら、怜。
「ずっと部屋にいたわ」
「部屋で、なにをして?」
「絵を描いてた」
「絵を?」
「そう」
「へえ」
 灰を落とす。
「どんな絵を?」
「砂浜」
「砂浜?」
「うそ」
「うそ?」
 鳴海は背を丸めて頬杖をついた。
「明日香ちゃんの顔」
「へえ」
「頼まれていたから」
「へぇ」
 灰を落とす。
 風切り音。風車が回り始めた。それでも風は強くない。中庭の木や繁みは揺れてはいない。空は晴れている。まぶしい。
「できたの?」
 まだ煙草は半分ほど残っている。じっくり喫おう。その分だけ話をしよう。
「絵の話?」
「そう」
 待合室に、怜の煙草の煙が層を作っていた。息を吹き付けると、雲のように流れる。
「下塗りは」
「色をつけているのか」
「ええ」
「本格的だね」
「時間はいくらでもあるから」
「部屋で?」
「そう」
 鳴海の声はいつもより低い気がした。もともと彼女の声は低いのかもしれない。気にしたことがなかった。
「西さんがモデルになって?」
「ううん、明日香ちゃんは黙ってるのが苦手なの。下描きをもらって、あとはひとりで描いてるわ」
「見ないで?」
「絵は見たものをそのまま描くわけじゃないもの。……モデルがいなくても描ける」
作品名:夏の扉 作家名:能勢恭介