夏の扉
「そうか」
「うん」
フィルターが熱い。限界か。怜は煙草を灰皿にもみ消した。一瞬濃く白い煙がのろしのように立ち昇ったあと、待合室の空気は静かになった。そろそろ電車の時間にちょうどいい。二本目に火を点けるつもりはなかった。
何度ここで顔をあわせたのだろう。思い出すと、ここで普通に話ができたのは、今日が最初かもしれなかった。穏やかだった。稲村はまだ鳴海を呼ばなかった。そうか、自分が見送られる側になるのか。
「電車が来る。帰るよ」
怜は立ち上がった。
鳴海は中庭を向いたまま、動かなかった。頬杖をついたまま、座っていた。
立ち上がった怜は、鳴海を見た。すらりとした長身の鳴海も、椅子に座ると小柄な女の子だった。頬杖をつく手首も白い。少し日を浴びたほうが、身体にいいよ。怜は紫外線のことを無視して、そっとその言葉を空気に乗せずに鳴海に送った。
怜ももう一度中庭を向く。立った怜、座ったままの鳴海、ふたりが同じ方を向く。二人が見えている中庭が同じものとは限らない。怜は思った。まだこの子は「終わり」を「見て」いるのだろうか、と。老婦人の前で彼女が涙を流していたのはなぜだろうと。
けれどそれらの疑問も、もう間もなく怜には何の意味も持たない、ただの記憶になってしまう。電車の時間が近づいていた。
(それじゃあ)
別れを告げるつもりは最初からなかった。
怜は待合室を離れる。背中が中庭の日を浴びて、温かい。
「さよなら」
背中越しにかすかに聞こえた言葉に、怜は立ち止まり、そしてゆっくり振り向いた。
「さよなら、白石さん」
鳴海の声だった。
しかし鳴海は頬杖をつき中庭を向いて座ったままだった。
鳴海は怜を向かなかった。部屋を出て行こうとする怜を、鳴海は無視しているかのような、そんなふるまいだった。
かちりとポケットの中で、部屋の鍵とライターが触れ合った。
「さよなら、鳴海さん」
怜は言わないつもりだった別れの言葉を、鳴海に告げた。静かだった。五つ数えても返事は返ってこなかった。
怜は踵を返した。一歩、二歩。
静かだった待合室に、キータイプの雨だれが始まった。
怜は残暑の陽射しがまだアスファルトの上で乱舞するエントランスの外へ、いくぶん早足で、調査員時代の歩調を思い出しながら、出た。
長い休暇が、終わりを告げようとしていた。
永遠に終わらないのかと思っていた夏も、見上げる雲の流れに秋を感じた。はるか時間の向こうになくした夏休みを、怜は奇妙なかたちで受け取った。そして、消えた。
空を見上げた。
雲が流れていた。
積乱雲ではなく、それは寄せては返す波の模様のような、遠くまでつづく雲の渚だった。風が流れた。海風だ。見上げたままの怜の鼻腔に、一瞬潮の香りが一滴、流れこんだ。瞬きのたび、あの水平線が浮かんだ。風車の丘と、ひまわり畑、川に流した花弁、紙飛行機、鳴海、そしてアマリリス。
怜は歩き出した。
間もなく電車がやってくる。乗り遅れては面倒だ。このあたりは一時間に一本も電車は走っていない。
潮の香りがまだ残っていた。
けれど怜は振り返らなかった。
風切り音だけが追ってきた。
怜は振り返らなかった。
長い休暇は、終わりを告げようとしていた。
(終わり)



