夏の扉
いま、鳴海は白い部屋のソファに座り、かたわらのアマリリスの鉢植えに右手を伸ばし茎を撫でながら、目の前の椅子を立ち、部屋を出て行こうとする「誰か」を、だまって見送ろうとしていた。微笑み、優しさ、言葉、体温、匂い、すべて。すべてをだまって見送っていた。
涙がこぼれる。これは、幻想ではない。現実だ。頬を涙が伝う。鳴海は願った。この暑さが、涙を空へと散らさないことを。そのまま流れて、こぼれ落ち、芝生に小さな海を作ってほしかった。わたしは、ここに立っている。この芝生の上に立っている。間違っても、白い部屋の椅子になんか座っていない。
涙があふれる。
老婦人はまだそこに立っている。
(けれど、いつか、いなくなる)
いつか、花は、枯れてしまう。
怜の声が聞こえた気がした。けれども振り返らなかった。本当に怜が呼んだのか、それともただのリフレインか。鳴海はじっと立っていた。
「見えているんでしょ?」
老婦人の声が、聞こえた。
少し眠ってしまったらしい。
怜は目を開いたとき、自分は<施設>の待合室にいるものと思っていた。それにしては椅子が軋まないな、そう思っていた。やけに明るい、とも。
目を開くと、目の前に一本の樹が立っていた。
ハルニレだ。
透明なドームに覆われて、樹が立っている。
ここは、どこだ?
怜は首をめぐらせた。記憶が錯綜していた。夢を見ていたからだ。しかし、目を開いた途端に、どんな夢を見ていたのか、忘れてしまった。<施設>の夢だったのかもしれない。だから、目を開いたとき、ここが<施設>の待合室だと思ったのかもしれない。
電車を待っているつもりだった。
そうだ。稲村のカウンセリングを終えて、家に帰るつもりだった。煙草を喫おうと思ったのに、灰皿がなかった。椅子がやけに硬かった。窓から浴びる光がやけにまぶしくて、目を細めた。キータッチの音も今日は聞こえず、それでふと、変だな、そう思った。
首が痛かった。不自然な格好で居眠りをしてしまった。
目の前の樹を見上げて、ようやく記憶がつながった。ここは、老婦人の病院だ。鳴海と訪れた、二度目の病院だ。
老婦人の病室まで鳴海を送り届けて、自分は引き返した。アトリウムで時間をつぶそうと思った。そして、このベンチに座った。ほかに時間をつぶせそうな場所が思い当たらなかった。気がつくと、眠ってしまっていた。今朝出がけに飲んだ稲村処方のトランキライザーが変に効いてしまったらしい。
鳴海は?
夢の中で、怜は鳴海を探していた。
鳴海さん!
呼んだ。彼女の名を。
けれど答えが返ってこなかった。
静か過ぎる<施設>の待合室で、キータッチの音も聞こえない<施設>の待合室で、怜は鳴海を探していた。
カウンセリングだ。
そう、自分の次は彼女の番だ。稲村先生!
怜は立ち上がり、軋まない長椅子を離れた。そして、廊下の角を曲がり、早足で稲村の診察室に向かった。やけに廊下が長かった。中庭がまぶしい。
稲村先生!
突き当たりが彼の診察室だ。もう勝手知ったる<施設>の廊下だった。それにしても、こんなに待合室から距離があっただろうか。
ようやく突き当たった診察室の扉は閉ざされていた。めずらしい。いつも開け放たれている扉が閉じている。ドアの横のパネルに、稲村の名を記したプレートが掲げられていた。大学の研究室のような。
不在。
ネームプレートの下に、そう書かれた札が下がっていた。
いないのか。
稲村先生?
怜は診察室の前でL字になっている廊下を右に折れた。隣は、河東医師の部屋か? やはり、『不在』だった。
廊下を行く。この角を右に曲がったのははじめてだ。突き当りが明るい。扉があるらしいが、そこが開かれている。向こうは、外だ。
エアコンの稼動音も聞こえないのに、暑くない。まだ夏は終わっていないはずなのに。怜は廊下を進み、そして外に出た。
そこは、中庭の延長だった。芝生と、ゆるやかな起伏、木々、繁み。そこに、人影が見えた。
黒い髪、痩身。鳴海の背中だ。そして、その向こうに、白いカーディガンを羽織った人影が見えた。老婦人だ。
鳴海さん!
呼びかけた。
けれど返事がなかった。
おかしいな、そう思ってもう一度呼ぼうとした。芝生が柔らかい。まるで上等な絨毯のような。
鳴海さん!
ようやく、鳴海が振り向いた。
怜は、歩み寄ろうとした足を止めた。
鳴海が、涙を流していたからだ。
そこで、目が覚めた。
だから、目を覚ました怜は、鳴海を探した。立ち上がり、すこし眩暈を感じながら、喉の奥の粘つくような渇きをごまかしながら、アトリウムを出た。
老婦人の病室は憶えている。雪の結晶のような配置のこの建物は、一本曲がり角を間違えると、まったく別の病棟に行ってしまう。曲がり角を確かめて、怜は老婦人の病室に向かった。そろそろ帰ろう。稲村先生の機嫌を損ねてしまうよ。
自然な照明、よく磨かれた廊下。そしてたどりついた老婦人の病室は、無人だった。籐の椅子と、差し向かいに置いてあるもう一脚の無愛想なフォールディングチェア。たしかに鳴海と老婦人はここに座ってなにやら話をしていたらしい。ナイトテーブルにはアマリリス、そしてマグカップ。二人はどこへ行ってしまったのだろう。
怜は病室を出た。なんだか、まだ夢の続きを見ているような気分だった。稲村のトランキライザーのせいだ。
廊下を曲がり、通路を行く。窓の向こうに緑。照明より気持ちがいい、太陽の光。そして、廊下の端に、開いたままの扉を見つけた。あの、丘の墓地へ向かったときに出た扉ではない。あの出入り口は、もっと斜面に近かった。まだここは雪の結晶の外周ではない。中庭でもあるのだろうか。ふと、怜は先ほどの夢を思い出す。やはり、まだ自分は目を覚ましていないのだろうか。それにしても、夢の中で『自分は夢を見ている』と実感することなどあるのだろうか。
怜は扉の前に立った。そして、呼んでみた。
「鳴海さん?」
鳴海は振り向いた。
扉のところに、怜が立っていた。涙を流したまま、振り向いた。
「白石さん……」
「鳴海さん。……有田さん」
怜の声。鳴海はゆっくりと老婦人に向き直った。
「鳴海さん」
老婦人の声。ここが<施設>の中庭のような気がした。
「有田、さん」
「鳴海さん」
老婦人が一歩、二歩と鳴海に歩み寄る。
「鳴海さん、見えているんでしょう? わたしの、『終わり』も」
鳴海はもう、勝手に流れていく涙を止められなかった。そして、自身が望んで涙を流しているのだと気づいた。流すべき涙なのだと。
「いいのよ、『見えて』いるんでしょう? わたしの『終わり』が」
老婦人の声は穏やかで、暖かかった。
鳴海は、声を出すことができなかった。嗚咽になった。そして、ゆっくりとうなづいた。
「花は、枯れるわ。あのアマリリスも、いつか。早いか、遅いか。けれど、強い花だから、きっと、ずっと後になって、そう、忘れた頃に、あの花は枯れる。……みんな、そうよ」



