夏の扉
鳴海さん、もう、見えているんでしょ?」
そのとおりだった。だから、静かにうなずいた。
「<施設>に戻ってからも、先生はまだ元気だったわ。一緒に温室でお茶を飲んだり、アマリリスを育てたり、絵を描いたり。まだ幸せな時間は続いていたわ。けれど、あれは余韻だったのね。だんだん先生は歩けなくなった。もともと、先生は若くなかった。今のわたしより、すこし若いくらいかしらね。わたしはきっと若い分だけ、体力があったから、<機構>の治療にも耐えられたし。そう、週に一回、<機構>の病院に出かけて、事故の後遺症を取り除く治療を受けたの。わたしも先生も。けれど、わたしは何ともなくて」
鳴海は今にもふさぎたくなる耳を、ふさがなかった。
「わたしは先生がいなくなった温室へ、先生がいなくなったあとも、毎日上がったわ。そうでしょう? あそこしかわたしの場所はなかったのだから。ひとりでお茶を入れて、ひとりで花を育てて、ひとりで空を見ていたわ」
老婦人は深く、何かから覚めたように、籐の椅子にもたれた。
鳴海は老婦人をじっと正面に見ていた。
「わたしが育てなくても、勝手に育つのよ」
薄く開いた老婦人の目は、澄んでいた。澄んだ目でアマリリスを見ていた。
「え?」
「放っておいても芽が出て、茎が伸びて、花が咲くの。強い花だから。でも、わたしは好きだったわ」
マグカップを持っていた手で、老婦人はアマリリスの茎に触れた。つぼみが揺れた。
「花が咲いていなかった?」
老婦人が訊いた。
「咲いていました」
「どうしてつぼみを持ってきてくれたの?」
「これから、咲くから」
鳴海が答えると、老婦人はすっと目を開き、そしてまた細めた。笑ったらしい。
「あなたらしいわね。鉢植えのまま持ってくるなんて」
ようやく笑ってくれた。微笑ではなく、顔全体で作る笑みを。鳴海は、笑顔を返そうと思った。そして、思わなければ笑えない自分に、気づいた。
「部屋を出ましょうか。なに、わたしはこんなところに入院してしまったけれど、まだ歩けるわ。白石さんを探しにいきましょう」
そう言って老婦人は立ち上がった。言葉の通り、すらりと。
老婦人は建物の位置関係をよく理解しているらしい。角を曲がるときに迷いがない。でたらめに歩いているわけではなさそうだ。
「どこへ行くんですか?」
「中庭、というより、裏庭ね。ちょうと裏側は山なんだけれど、<施設>の中庭に少し似ているのよ。木が生えて、繁みがあって、芝生がきれいで。出入りが自由なのも同じ。もちろんフェンスで囲っているけれどね。いいかしら? まだ風も涼しいわ」
鳴海は時計を持たない。この建物にも、時計が見当たらない。老婦人の部屋にもなかった。ナースステーションやエントランスにはあったのだろうけれど、通り過ぎてしまった。今が何時なのかわからない。<施設>を出たのは朝だった。まだそれから三時間もたっていないだろう。きっと今は昼前だ。老婦人の言葉どおり、風は涼しいに違いない。
「鳴海さん、夢は見る?」
数歩前を歩きながら、老婦人が言った。
「夢ですか?」
「そう、寝たら見る夢」
歩きながら、言葉を選ぶ。そして、声に出す。
「ときどき」
「どんな夢を見るのかしら。わたしはね、あのころの夢。<施設>の屋上の夢。先生は出てこないんだけど、ひとりで温室に行く夢。楽しいのだか、寂しいのだかわからない、不思議な夢。色がついていないのよ」
「わたしの夢は、色があります」
「色がついた夢を見るひとと見ないひと、二つのタイプの人間がいるらしいわね。そう、鳴海さんは色付きの夢を見るのね」
廊下は長かった。両側は病室。すれ違う人もなく、静かだった。開いたままの扉の向こうをうかがうと、ベッドの上に腰かけて窓の外を眺めている人、本を読む人、寝ている人、空のベッド、いろいろだった。ここは病院なのだ。ライティングデスクやラジオは見当たらない。つくづく、自分が生活している<施設>が奇妙な気がした。いつか老婦人と話した鏡のことを思い出す。向かい合わなければ、自分の姿が見えてこない。ここは、きっと、鏡なのだ。だとしたら、前を行く老婦人は、鏡の中に入ってしまったのだ。すると老婦人は、自分自身を映す鏡なのだろうか。そんなことを考えながら、老婦人についていく。
「ここから出るの。このあいだとは違うでしょ?」
前に来たとき、病棟のどこから外に出たのか、鳴海は覚えていない。だから老婦人がわざとらしい笑みを浮かべて(それは「いたずらっぽい」と形容されるべき表情だったのかもしれないが)扉を開いたときも、鳴海は言われるまで、前回と違う出口だと気づかなかった。どうでもよかったからだ。鳴海は老婦人の背中しか見ていなかった。
「ちょっと、びっくりするかもしれないわ。似ているのよ、<施設>の中庭に」
老婦人が芝生に足を降ろした。続いて、鳴海。
建物の白い外壁と、芝生の緑、木々の色、空の色。鳴海は靴の下で、やわらかな草の感触を踏みしめた。たしかに、似ているかもしれない。<施設>の芝生に。
「静かでしょ。ここは風力発電はしてないみたいだから」
プロペラの風切り音が聞こえない。老婦人は先へ行く。
「あなたが中庭をときどき散歩しているの、わたしは談話室の窓からながめていたわ」
老婦人はツツジの繁みの前に立ち、振り向いた。
「あれは、稲村さんの診察の前?」
「だいたい、前、です」
靴の下で気持ちのいい弾力。芝生はよく手入れされていた。<施設>の芝生は、もう少し虎刈りだ。誰が手入れしていたのだろう。いままで気がつかなかった。
「外の空気は、たまに吸うと、気持ちいい」
老婦人が言う。ハルニレの樹がここにも立っている。水が豊富なのだろうか。
「でも、やっぱり暑いわね」
「まだ、夏です」
「もう、秋よ」
老婦人は、なかば強引に夏を終わらせようとしている。鳴海にはそう感じた。前にあの丘まで歩いたときも、しきりに夏の終わりを勝手に宣言してはばからなかった。
「空が高いわ」
鳴海はこの日、同じ言葉を二回聞いた。そういえば、怜はどこへ行ったのだろう。
「鳴海さん」
何歩かの距離をおいて、老婦人が微笑を浮かべて、鳴海の名を呼んだ。
「はい」
「今日は、どうして来てくれたの? あの花をわたしに届けるため?」
うなづく。
「どうして、持って来る気になったの?」
まっすぐ射るような鳴海の目。老婦人はそっと鳴海の視線を受けとめる。
「わたしが感じたことが、答えなのかしら」
鳴海は応えない。老婦人は、もう理由を知っている。なぜ、鳴海が今日ここへ来る気になったか、どうしてアマリリスの鉢植えを持って来る気になったのかを。
瞬間、この病院の芝生、老婦人が言うところの裏庭が、あの白い部屋とオーバーラップする。けれど、鳴海は逃げなかった。いままでは逃げていた、あるいは逃げ込んでいたあの白い部屋で、鳴海はいま、だまって扉の閉まるのをそのままにしている。
見えていた。



