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夏の扉

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「アマリリス。いい名前じゃない? 女の子の名前のような。しかも、強い。先生はそう教えてくれた。強い花だってことをね。どれだけ寒い春でも、球根からは芽が出て、気がついたら花が咲いているくらい強い花だってね。何も温室で育てる必要もない、それくらい強い花だって。けれど先生が温室でアマリリスを咲かせていたのはね、あの<施設>のどこにも、個人的に花を育てられるような場所がなかったのよ。だから先生はあそこに部屋を作ったのね。こっそり、入院している人たちにも秘密に。雨風を防ぐために屋根を、壁をつくって。けれど密室ではなくて、透明な仕切りをこさえてね」
 鳴海は、屋上のコンクリートの上に、ぽつんとあの温室が載っている姿を思った。今は名前もわからない緑の繁みに守られ、秘密の小部屋になっているあの温室。きっと老婦人がはじめてあの温室を見たとき、風が吹けば飛んでしまうほど、頼りなく思えたに違いない。
「『アマリリス』っていう名前の曲があるのを、鳴海さんは知っているかしら?」
 知らない、と首を振った。二度、三度。
「わたしももううる憶えだけど、ちょっと明るい、ちょっと寂しい、そんな曲がね、あったのよ。先生があとで、音楽室で弾いてくれた。今も残っているでしょう、あのピアノ。あのピアノでね」
 稲村が弾いていたあのピアノだ。
「それからしばらくして、先生はわたしに合鍵をくれた。カウンセリングが終わったあとで、こっそりと、手のひらに包ませてくれたわ。わたしはその日、お昼が済んでしばらくして、屋上に上がった。夕焼けがきれいだったわ。よく憶えてる」
 老婦人は目を閉じていた。幾筋ものしわ。マグカップを包み込む両手。温かい。
「あの部屋に、鳴海さんは入ったのね?」
 目を閉じている老婦人に、鳴海は答えた。
「ええ」
「椅子が置いてあったでしょう」
「はい」
「あの椅子も、先生が作ったのよ。わたしに合鍵をくれたあとでね。先生は長い時間、あの部屋にいることがなかった。いられなかったのね。わたしたちとは違って、いろいろな仕事があったから。だから代わりに、わたしに椅子を作ってくれた。けれど先生は花を作るのは上手だったけれど、椅子を作るのはあまり上手じゃなかった。すごく軋んだでしょう」
「そんなに、気には、ならなかったけれど」
「あら、そう。あの椅子はね、ぎしぎしとうるさかったけど、わたしが座るくらいなら、壊れる心配はなかったのよ。そこに座って、わたしはアマリリスを眺めるのが日課になったわ。暖かかったし、下の人たちと会わずに済んだから」
 入所者たちのことだろう。そうか、そうだったのか。
「やっと、わたしの場所ができたって、思った。嬉しかった。わたしがいてもいい場所、わたしを認めてくれた場所。アマリリスとわたしは話をした。いろいろな話。もちろんわたしが一方的にしゃべるだけだったけど、そう、幸せだった。
 先生は絵を描くのも上手だった。油絵をね、ときどき描いていた。鳴海さん、あなたも絵を描くのよね」
「ときどき」
「先生は、アマリリスの絵は描かなかったの。屋上から見える風景を描くということもなかった。先生は、空の絵ばかり描いていたわ。空の絵。わかる? 雲だとか、虹だとか。もちろん普通の絵を描いてもうまくて、何人かには絵を教えていたみたい。カウンセリングの一環だったのかもしれないけれど、先生に教えられた人たちの絵が、待合室に飾ってあるでしょう? 先生の絵は一枚もないけれど、あそこに飾ってある絵よりは、ずっとわたしは好きだった。ただ、一日空を眺めていることが、あの部屋の中ではできたから。それってものすごく贅沢なことだって思ったのよ。
 絵を描いて、空を見上げて、アマリリスを眺めて、お茶を飲んでね。本当、あのころがいちばん幸せだった。今思うとね」
 イーゼルの上の白いキャンバスを鳴海は思い出していた。
「有田さんは、描かなかったんですか?」
 老婦人は薄く目を開いた。微笑んでいた。
「わたしはね。先生が描いているのを、隣で見ていただけ。それだけでよかったのよ。アマリリスを一緒に眺めて、お茶を飲んで。それだけでよかった。ときどき本を読んだり。一緒に詩を読んだりしたわ。今思い出すと、そう、笑ってしまうでしょう」
 鳴海は老婦人の目を見た。澄んだ目。
「けれど、そのうち先生はいなくなってしまったわ」
 もしレコーダーのように一時停止のスイッチがあったなら、鳴海はそこで老婦人の会話を止めていただろう。次につづく言葉が、鳴海には予想できた。
「わたしがなぜ、今ここにいるのか、鳴海さんはもう知っているのよね」
 鳴海は老婦人にわからないようにうつむき、そして視線を外し、窓の外を向いた。首を動かさないように、視線だけで。
「発電所の事故があったのよ。たまたま、わたしは先生と一緒に、<施設>を出ていたの。どうしてあの日、そう今でも思うわ。
 わたしは、あの日、海を見てみたかったの。よく晴れていた。もうなんども海岸線は大高潮で洗われていて、海岸沿いの国道が閉鎖されるのは時間の問題だったわ。だから、わたしは先生に頼んだの。海を見に連れて行って欲しいって。そう、あなたが白石さんに連れられて行ったように」
 鳴海には見えていた。白い部屋。陽だまりの中に座っているのは、自分ではなく、老婦人だ。扉が閉まる。誰かが出て行ってしまう。
「海はきれいだったわ。楽しかった。風は強かったけれど、その分、白い波が砕けて、とってもきれいだったわ。ラジオからは先生が好きだという音楽が流れていて、わたしもその音楽が好きだった。もうかすかにしか憶えていないけれど、夏の歌だった。歌ってみましょうか」
 老婦人は、鳴海の返事も待たずに、すっと目を薄く閉じると、わずかに開いた口から旋律を奏でた。細くかすれた声は、果たして鳴海の耳に届いたとき、確かな音楽になっていた。けれど、それは鳴海の知らない歌だった。どこの国の音楽なのかもわからなかった。老婦人はメロディだけを口ずさんだ。その曲に歌詞がついていたのかどうかなど、お構いなしに。それでいい、というふうに。
 ワンフレーズ、音楽は唐突に止まった。まるで、そう、電源が突然切れてしまったラジオのように。
「先生は車を止めて、わたしも車を降りて、海を眺めたのね。しばらく」
 老婦人は、つい今楽器だった彼女の口から、ふたたび、重さのはっきりしない言葉を鳴海に投げかけた。
「風が気持ちよくて、潮の匂いが気持ちよかった。そうしていたら、ラジオの音楽が突然止まったの。そして、臨時ニュース」
 発電所の事故だ。風が強かった。波が高かった。国道は間もなく閉鎖されるはずだった。
「わたしと先生は、灰を浴びてしまったのね。帰りの国道で、<機構>の検問を受けたわ。黄色い防護服を着た人たちがいっぱいいて。
知ってる? ガイガーカウンターはね、ひどく耳障りな音をたてるのよ」
 ここに怜がいなくてよかったと鳴海は思った。とまどう老婦人、そして「先生」。彼女らにガイガーカウンターを向ける怜。そんな場面が何のためらいもなく、鳴海の中に浮かぶ。
「わたしは、そんなにひどい症状は出なかったわ。だから、いままでこうして暮らしてこられたの。きっとね。けれど、先生は違ったみたい。
作品名:夏の扉 作家名:能勢恭介