夏の扉
立派なハルニレだ。どこからか移植したのだろうか。それとも促成培養か。現在の技術は、樹齢六十年の大木を、わずか六ヶ月で完成させてしまうだろう。需要があれば技術はそれらの促成培養を実現させてしまう。それがいいことなのか悪いことなのかを問う声など、もう聞こえない。ひとりぶんの食事に十人が群がる現在の世界を目の当たりにすれば、遺伝子操作など取るに足らない問題だ。シベリア産の小麦で作ったパンをかじりながら、「そう言えば、」と思い出す程度の、矮小な問題。
そう言えば。
鳴海が提げていた保温袋の中身だ。
アマリリス。
怜は花の名前にさほど詳しくはない。そして怜はアマリリスの花をよく知らない。球根を見せられて、それがチューリップのものなのかアマリリスのものなのか、きっとわからない。
<施設>の庭に花はない。どこからか飛来したハマナスの花が咲くかもしれない。けれど、アマリリスと思しき花が咲いていた記憶はない。だとすれば、彼女が提げていたアマリリスは、<施設>のもうひとつの庭、屋上の温室で育てられたものに違いない。
それをなぜ、老婦人に届けようと思ったのか、怜はわからない。なぜ彼女がいま、自発的にここへ来ようと、<施設>を出ようと思ったのか、怜はわからない。そして、彼女に訊こうとも思わなかった。
怜は見上げていた。ハルニレの樹をだ。枝で羽根を休める鳥もなく、幹を伝う虫もおらず、風も吹かないこのアトリウムで、ハルニレはただそこに立っている。
首が痛くなってきた。
「おひさしぶりね。と言いたいところだけど、先週来てくれたばかりね。こんにちは」
老婦人はベッドにはいなかった。療養服姿だがカーディガンを羽織り、窓辺の椅子に腰かけて、お茶を飲んでいた。
「ジャスミン茶。いい香りがするのよ。ここの給湯室はね、いろいろな飲み物があるのよ」
そう言いながら、老婦人は鳴海にお茶を勧めるわけでも、椅子を勧めるわけでもなかった。鳴海はもう一脚、部屋の隅から椅子を引っ張りだしてきて、老婦人の向かいに座った。
「白石さんは、一緒ではなかったのかしら」
怜は部屋に入ってこなかった。(あとで来るよ)と言い残し、いなくなった。
「元気、ですか?」
鳴海が訊いた。老婦人の顔色はいい。けれど、訊いた。
「ご覧のとおりよ。外は暑いのでしょうね。このあいだの丘まで行ってみましょうか? ここ二、三日、暑くて外には出ていないのよ」
残暑が厳しい。……らしい。そう明日香のラジオが告げていた。<施設>の中も空調が効いている。住み心地はここも<施設>もかわらないように思えた。
「きょうは、ただのお見舞い、なのかしら?」
老婦人は鳴海の足元に置かれた保温袋を見、目を細めた。
「アマリリスです」
言って鳴海は袋を開けた。鉢植えのまま、アマリリス。
鳴海はナイトテーブルの上にアマリリスを載せた。つぼみはあと数日で開くかどうかというところ。平べったくたくましい茎、そして土の匂い。
老婦人はしばし、鳴海の手土産を時折ゆったりと瞬きを繰り返し、眺めた。これは鳴海のメッセージだった。このアマリリスは、どんな言葉よりも、鳴海があの屋上の温室で見たもの、感じたものをすべて、雄弁に伝えてくれるはずだった。老婦人は手にしたマグカップを両手で包み込むようにしたあとで、そっと鉢植えの隣に置いた。鳴海は思慮していた。マグカップに見覚えがあるかどうか。老婦人が<施設>で使っていたものと同じなのかどうか。けれどわからなかった。憶えていなかった。老婦人と何度か談話室でなにを話すともなくテーブルをともにしているというのに、老婦人がどんなマグカップを持っていたのか、正確に思い出せない。
老婦人は椅子の背にもたれた。一度も休まず、<施設>のあの診察室のある一階から談話室へ、階段を上がってきた後のような、そんな疲れた息をして。
「あの部屋に行ったのね」
老婦人は鳴海を向かなかった。そして鳴海は老婦人の問いかけともつかない言葉に返事をしなかった。目の前のアマリリスが答えだ。
「よく見つけたわ」
この鉢植えをだろうか。それともあの部屋をだろうか。
「子どもたちがあなたを連れて行ったのかしら」
鳴海はゆるやかに首を振った。横に。一度、二度。
「昔話をしましょうか」
そこでようやく老婦人はふたたび鳴海を向いた。
「そう。昔、屋上には、あの部屋しかなかったの。もうずっと昔」
鳴海はそっと居住まいを正した。
「わたしがあなたくらいの年だったかしら。いいえ、それは大げさね。けれど、あなたがまだ生まれていなかったころの話。<施設>の周りにはまだ街があったころの話」
老婦人が少しだけ、半身を起こした。椅子がきしむ。籐の椅子。
「風車はもうあのころから屋上でまわっていて、けれどそれしかなくて、がらんとしていたわ」
広々と、ではなく、がらんと。老婦人はそうあの屋上をたとえた。それが鳴海には不思議だった。
「わたしを担当していた先生が、花を育てるのが上手だったわ。河東先生じゃないわよ。あの人もまだ医学校に通う前。その先生がね、ときどき屋上へいなくなるから、わたしはね、ある日あとをつけたのよ。どこへ行くのかしら、って。わたしはもう<施設>で生活していたのだけれど、屋上には上がったことがなかった。正確に言うと、出入りを禁止されていたのね。わかるでしょ」
自殺の防止だ。いま、<施設>の屋上が施錠もされず、解放されていることのほうが奇妙なのだ。
「先生は鍵を持っていた。あの扉の手前で呼び止めて、そして一緒に屋上に出たのよ」
老婦人はマグカップをとり、ひとくちジャスミン茶を飲む。ほのかな香り。まだ冷めていないらしい。暑い、そう言ったわりに、湯気のたつお茶を飲む。鳴海は老婦人の変わらぬ習性を見た。いつでも老婦人は、熱いお茶を好んでいた、と思う。
「空は晴れていたわ。よく憶えている。風車が回っていて、街も山もよく見えた。あれは何月だったかしら。暖かかったけど、寒かった。春だったのね。今ほどに季節がぼんやりしていたわけじゃないから、四月か、五月。桜は咲いていたかしら。<施設>の周りに桜の木は生えていなかったから、憶えていないわ。そして、先生について、わたしは屋上に出たのよ。気持ちがよかった。自分がね、そういう感情をまだ持っていたっていうことに、驚いたわ。『気持ちがいい』ってことに」
鳴海はうなづいた。同じ気持ちを、わたしはよく知っている。
「屋上の片隅に、あの部屋があった。小さな、ビニールでできた温室。でもサーモスタットもちゃんとついた、本格的なね。今の温室にはもちろんかなわないけど。で、ビニールでできた扉を開けると、アマリリスが咲いていたわ。たくさん、たくさん。わたしは花の名前なんて知らなかった。だから訊いたのね、先生に」
(何という花ですか?)



