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夏の扉

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 鳴海はアマリリスを抱えて目を閉じていた。瞑想しているような横顔。表情がない。電車には乗客が自分たちしかいない。流れる風景は鮮やかで、けれど少しけだるくて、怜はひとつの季節が終わりに近づいていることを噛みしめた。しかしまだ終わってはいない。怜は、鳴海とともにまだ移ろう季節の途中にいた。いまはまだ夏だ。いくぶん高くなった空の果て、石狩湾の上空には見上げるような積乱雲が湧いていた。きょうの電車の窓は嵌め殺しだった。外の匂いを感じることはできない。遠慮なく首筋に照りつける陽射しはまだ夏のそれだったが、夏至を頂点にするならばその反対側、初夏の太陽と今朝の太陽は似ている気がした。怜は乱反射する夏のほとりで、少女の面影がまだ残る鳴海の横顔をながめていた。目を閉じた彼女の顔は、まだ十代のそれに見えた。話しかけようとは思わなかった。それに鳴海は一言もしゃべらなかった。
ターミナルまで乗り込んでくる客はいなかった。怜が先に電車を降りた。ここのプラットホームは低い。もともとがバスターミナルの建物だったからで、パンタグラフを縮めた電車はホームに停車して窮屈そうだった。
「道順は知っているのかい」
 後に降りたくせに怜を追い越し、アマリリスの鉢植えを抱えてずんずんと進む鳴海に背中に呼びかけた。
「知らないわ」
 そう答えながらも足を止めない。普段<施設>から一歩も出ず、ろくに歩いていないはずの彼女は、歩くのが仕事のような怜の歩調に負けていない。速い。海を見に行ったときの彼女と同一人物なのか疑いたくなった。
「地下鉄に乗るんだよ」
 市街電車の中も地下鉄の車内も、もちろん駅構内をすべてひっくるめて禁煙だ。怜は右手をポケットに突っ込んで、ライターに指先を触れていた。
 改札機は老朽化が進んでいたが、カードリーダーは<機構>が推奨する規格のもので、IDカードを差し込めば口座から勝手に運賃は引き落とされる。IDを持っていない鳴海は券売機の前だ。アマリリスを下げて突っ立っていた。見かねた怜が行き先表示のボタンを押した。硬貨が転がる音を怜は懐かしいと思った。鳴海はこの音を聞いたことがあっただろうか。
 地下鉄を待つ乗客も少ない。この街は捨てられたからだ。旧市街の中でも海に近いこの区域は、間もなく<機構>の強制執行がかけられる。その際この駅も閉鎖される。青白い蛍光灯はひとつ置きの点灯で、プラットホームは薄暗かった。線路内を水が幾筋も流れていて、その音があまりに場違いなので怜は気に入っていた。<施設>に通うようになってから、プラットホームの下を流れる川の水音に耳を傾けるのが習慣になっていた。
 地下鉄を待つあいだも鳴海は無言だった。やがてホームに滑り込んできたヘッドランプを、彼女は首をめぐらせて追っていた。鳴海は川の流れを感じていただろうか。切れ長の瞳の端で地下鉄のヘッドランプをとらえていた鳴海の横顔を眺めて、怜は考えていた。
 実際のところ、怜も地下鉄に乗って旧市街を歩くのはずいぶんと久しぶりなのだ。<団地>から都心の環境保健局までの通勤以外の路線に乗ることもなかった。できれば鳴海のように切符を買ってもよかったかもしれない。券売機にもリーダーはついている。おそらくターミナルで買った切符を手のひらの中にそっと握ったままの鳴海を隣に、怜はまたそんなことを考えた。そして、アマリリス。
 どうして鳴海は突然、ふたたび老婦人を見舞おうなどと考えたのだろうか。彼女が抱えているアマリリスに何か意味があるのだろうか。
 おそらく<施設>に通い始めたばかりのころの怜なら、それらの疑問を鳴海に無遠慮にぶつけていたに違いない。いまそうしないのは、たしかに存在する彼女への遠慮と、自分に対する無関心だった。彼女に対しての無関心ではない、自分に対しての無関心だ。
 老婦人の新しい住所は、旧市街の中心で地下鉄の路線を乗り継いだ西の終点に近い。駅を出ると、湿った風が髪を撫でつけた。鳴海は階段をひとりすたすたと上っていく。怜は砂の浮いたアスファルトの上で、沈黙したままの信号機を数え、部屋のことを考えた。指先がポケットの中で鍵に触れる。この部屋ではない。もちろん<施設>の鳴海の部屋でもない。
 怜が考えていたのは、いま扉が閉じようとしている季節のことだった。
 もし季節がそれぞれひとつずつ、部屋なのだとしたら。
 いまは夏の部屋。扉を開け、怜は夏の部屋に足を踏みいれた。夏の扉の鍵を持っていたから、鍵を開けて入った。そして、いま、夏の部屋を出ようとしている。この部屋は無期限に滞在できないのだ。チェック・アウト時刻を過ぎると、追い出されてしまう。だから準備をしなくてはならない。秋の扉の鍵をポケットに探しながら。
 鳴海は季節の鍵を持っているのだろうか。アマリリスの鉢植えを提げ、彼女は道を知らないくせにひびだらけのアスファルトを進む。
 怜はひっくり返った自動販売機を横目に、扉のことを考えていた。
 移ろう季節はわき道もない一本の道筋なのだろうか。扉はそこに一列に並んでいるのだろうか。だとしたら、いま出ていこうとしている夏の部屋には、扉が二つあるに違いない。入り口と、出口だ。戻ることのできない、それぞれの扉だ。
 自分はすべての部屋の鍵をもっているのだろうか。前を行く彼女は鍵を持っているのだろうか。いつまでつづくかわからない季節の移ろいを、それぞれの扉の鍵を、自分たちは持っているのだろうか。
 道端でひまわりが首を垂れていた。まだ旧市街に残るひとびとの家並みは、まだ住む者の息遣いが聞こえる。犬がひまわりの陰で目を閉じていた。ふらふらと歩く自分、まっすぐに歩く鳴海。彼女は道を知らない。
「鳴海さん」
 アスファルトの照り返しが暑い。鳴海はだまって歩みを止め、振り向いた。まぶしそうに目を細めながら。
「そっちじゃないよ」
 道を一本、通り過ぎてしまっていた。怜は正しい道をそっと右手で指差した。鳴海は目を細めたまま、砂を踏んだ。
「君は道を知らないだろう」
「大丈夫よ」
「……」
 怜は短く嘆息を、苦笑もまぜてそっとこぼすと、坂道の始まった病院への道筋を、鳴海とふたり、歩く。

 老婦人は病室にいた。
 鳴海が部屋に入った。
 怜は入らなかった。
 老婦人に小さく会釈をすると、鳴海の背中を見送った。そのまま踵を返し、怜はアトリウムへ向かった。空調の効いた病室は、怜の住む<団地>に似ている。間接照明が心地よく、限りなく自然光に近い周波数を持ったこの病院の照明は、ちらつく蛍光灯ばかりが目立つあの<施設>とあまりに異なっている。どちらを心地よいと感じるか、怜は自分自身に答えを求めなかった。
 天井が高くなる。一体成型の天蓋、すっと天に向かって枝を伸ばし、四方に葉を繁らせたハルニレの樹。アトリウムに着いた。怜はいくつか並んだベンチのひとつに腰かけ、灰皿を知らず知らずのうちに探していた。そして苦笑した。ここは<施設>ではない。灰皿があるはずもない。ポケットの中でライターをかちゃりと鳴らして、樹を見上げた。
作品名:夏の扉 作家名:能勢恭介