夏の扉
ちらりとあの少女をうかがう。彼女は左手でスプーンを持ち、差し向かいのふたりにときどきあいづちをうっていた。パンをちぎる動作で、かすかに黒髪が揺れた。
「どうかしたの?」
ちらちらと視線をはずす怜に、老婦人が訊ねる。フォークを持つ老婦人の白い肌は少女と似ているが、幾重にも刻まれたしわは、怜をどきりとさせた。時間そのものを彼女の手の甲に見た気がしたからだ。
「いえ」
「食事の相手がこんなおばあさんでは、具合が悪かったかしらね」
そう言って老婦人は微笑む。ここの人たちはよく笑う。
「いえ」
怜は残りのパンを口に押し込む。午後になり、陽が怜の顔にかかるようになってきた。眩しい。調査員時代、日中の長時間作業ではサングラスをかけさせられた。紫外線から目を守るための命令だった。だがもうそんなことはどうでもよく感じた。眩しさが心地よかった。
「あの」
言ってから怜はパンを嚥下し、グラスの水を半分ほど飲んだ。薬臭くもない、よく冷えた水だった。
「なんでしょう」
老婦人はサラダを口に運んでいる。トマトの赤が美しい。
「僕はここにいてはいけない人間ですか」
フォークでトマトを突き刺し、皿の底にたまったドレッシングをまぶす。
「どうしてですか」
老婦人の声はどこか直接頭に聞こえてくるかのようだ。
「いえ」
それっきり、怜は言葉を失った。なぜ自分がそんなセリフを吐いてしまったのか、老婦人からも視線を移した。老婦人は何も言わず、サラダを口に運びつづけている。静かに、あたかも怜の次の言葉を待っているかのように。稲村の前では感じたことがない、こみあげるような、暖かい緊張が怜の胸いっぱいに広がっていた。
9、階段?
食事が終わると、患者たちは三々五々、部屋を引きあげていった。何人かはテーブルに残り、自室から持ってきたのかそれぞれのカップでコーヒーやお茶を飲んでいた。怜も老婦人にすすめられるまま、テーブルに残った。彼女に聞いたところ、この部屋は単に<談話室>とだけ呼ばれているらしい。談話室にはもうほとんどまっすぐに日が入るようになった。看護婦のひとりが目の細かいブラインドを半分ほど下げてくれ、眩しさはなくなった。
怜は配膳から白く無地のカップを借り、老婦人は深い水の底のような蒼いカップ。そこに彼女は紅茶を注いでくれた。砂糖もミルクも入れず、ふたりは紅茶をすする。老婦人はポケットからタブレットをいくつか取り出し、紅茶でそれを飲んだ。怜に処方されている薬は、朝と夜の一日二回の服用だから持ち歩いたりはしない。
あの少女は食器が下げられるとすぐに席を立ち、どこかへ行ってしまった。仲良し二人組はショートヘアの子が階下に消え、もうひとりは残って、壁際の書棚から文庫本を取り出してきて、ふたりがけのテーブルでページを開いた。午前中にいたチェス青年たちも、今はいなかった。読書青年も姿をあらわさない。結局部屋に残ったのは、談話室の入り口近くのテーブルでノートを広げる小学生くらいの女の子がひとり、チェス青年たちがいた席には、ひとり頬杖をついた三〇代と思しき女性が座っている。そして、老婦人と怜。
「だいぶんなじんできた様子ね」
紅茶のお代わりを怜のカップに注ぎつつ、老婦人が言った。
「そうですか」
「そうじゃなくて? わたしにはそう見えるわ」
「はい」
せっかくの心遣いに応える術を怜は知らなかった。気の利いた言葉も、自分の胸の底に落としたっきり、もう何年も見つけることができない。
「さっきはどうしてあんなことを言ったのかしら」
湯気を立てるカップ。老婦人の手。自分の手。怜はまだ言葉を探していた。
「カウンセリングじゃないわ。世間話よ」
老婦人は笑う。違う、まだ稲村を前にしているときの方が、しゃべることができる。まるでいたずらが見つかって母親の前に座らされているようだ。
「わかってます」
紅茶はちょうどいい温度。そこが老婦人の気遣いの現われか。
「ここにいる人たちは、みなさん、本当にどこか悪いのでしょうか」
顔を上げ、なんとか老婦人と目を合わせる。彼女は微笑みを絶やさない。
「どうなのかしら。わたしはもう、あなたが生れる前からここにいるわ。だから、ここに来る人たちがどこか悪いのかどうか、街の人たちと比べることもできないの。でも……そうね、街の人たちと比べたら、きっと違うのでしょうね。だから、ここに来てしまった」
「来てしまった」
「ええ」
「しかし、ここは居心地がよさそうです」
老婦人がカップを口許に運ぶ。音も立てずに紅茶を含む。
「そう見えるのかしら」
「ええ。……違うんですか」
怜が言うと老婦人はカップを戻し、一瞬だが目を伏せたように見えた。
「ある意味、ここはいいところよ。心が騒ぐこともなければ、周りの人たちから責められることもない。週に何回かカウンセリングを受けて、ときどき散歩したり、ここでテーブルを囲んで、気の合う人たちとお話をしたりね。外へ出たくなければ出る必要もないし、空を見たくなければ一日中自分の部屋にいたってかまわない。週に二回のカウンセリングをきちんと受けて、もらった薬を飲んでいればいいわ。けど、それだけよ。わたしたちはもう、街へは戻れない」
「戻れない」
「ええ、そう。戻れなくなってしまった。それに、もう戻りたいと思っている人は少ないわ、きっと」
「でも、治すために、その、病気を。病気を治すために、ここにいるわけではないんですか。だったら、いつかはここを出て、街に戻るわけじゃないですか」
怜はカップを包み込むように持ち、熱いくらいの温度を感ずる。
「あなたは、まだ街の人間です。だから自分の場所へ戻ることができます。でも、わたしやここの人たちは、帰る場所がないんです。いえ、正しく言うと、もうここのほか、その身を置くことができる場所なんてありません。それをみんな分かっています。あなたと違うところは、戻れるか戻れないか。それだけです」
「僕は、以前通っていた病院で、ここに来るように言われました」
「入院するようにですか」
「いえ、通うように、と」
老婦人は紅茶を一口。怜も一口。上目遣いの子がページを繰る音が聞こえた。
「あなたの目を見ればわかるわ。怒らないで欲しいの。あなたの目は、なんて言ったらいいのかしらね、ここの人たちと色が違うの」
「そうですか?」
ショートヘアの女の子に言われた言葉が、溜飲のように胸につかえていた。
「あなたの目は、わたしやほかの人たちより、ずっとまだ曇っているわ」
言われて怜は老婦人の目を空の星を見上げるような気持ちで射る。あの少女と同じ、黒目と白目がくっきりとした、ガラス球にも似た光を宿していた。澄んでいるのとは違う。うまく怜には言いあらわせない。観測機器のレンズ……。
「でもあたなもここへ来るように言われたのなら、わたしたちと同じなのかもしれないわ」
老婦人はカップから指を離し、華奢な椅子に身をあずけた。
「わたしたちと一緒に住みましょうか?」
怜は残った紅茶を飲み干した。おかわりは、と訊く老婦人に首を振る。
「さっき、ここの子に言われました。僕はここでは暮らせないってね」