夏の扉
アマリリス。
教室で咲いていたのは一輪だった。窓辺に置かれたプランターに一輪。アマリリスは高台に建てられた校舎の窓から、黄昏の街を見下ろしていた。あの頃の記憶がよみがえる。それは普段ならあの「白い部屋」の幻想へとつながる呼び水となるはずだった。しかし鳴海は目を閉じたりはしなかった。奇妙な既視感。あまりにも似ていた。あの「白い部屋」と、この小さな部屋が。
アマリリスはたおやかに育っていた。鳴海はひとりがけの椅子に腰かけた。きしむ。待合室の長椅子の比ではない。この椅子もテーブルも、どれだけの時間を経てきたのか、音を聞いて鳴海は悟った。そして鳴海はこの部屋に誰がいたのか、それを理解した。
なぜいままで気がつかなかったのか。なぜいままでだまっていたのか。それは「彼女」のささやかな楽しみだったのかもしれない。そして鳴海は気づいた。「彼女」もまた、ここ、<施設>の住人だったのだということに。マグカップをそっと持ち上げ、イーゼルに載った真っ白なキャンバスを見、鳴海はそっと目を閉じた。涙が出るかと思ったが、出なかった。
夕日に照らされた小さなビニール製の部屋の中で、鳴海はここを去っていった「彼女」を思った。きっとここが彼女の部屋だったのだ。いったいどれくらい昔から彼女がここにいるのか、正確なことはわからない。きっとこの複合素材と太陽光発電パネルで構成されたドームができる前、屋上に建っていた温室はこの小さな部屋だったに違いない。そしてこの温室を守っていたのは、彼女だったに違いない。
何もが平淡に、変化もなく時間が流れていると思っていたこの<施設>ですら、はっきりと時間の流れの中にあった。「終わり」などけっして見えなかった<施設>の風景に、いま、「終わり」を見ることができた。沈んでいく夕日に目を細めながら、大きな花をせいいっぱい咲かせるアマリリスを数え、鳴海は頬杖をついた。
彼女がここへ帰ってくることはあるのだろうか。
鳴海は頬杖をつき、アマリリスと夕日を眺め、何もかかれていないキャンバスを前に、空のマグカップを片手に持ち、彼女を思った。
老婦人の横顔を。
自分の姿を重ねて。
いつかは枯れてしまうだろうアマリリスに囲まれて。
電車はまだ到着していなかった。陽射しは強く、長袖を着ていても肌が露出している部分が暑い。たった一時間ここに立っていただけで、きっと強く日焼けをしてしまうだろう。プラットホームに立ち、手すりにもたれるようにして、電車を待っていた。
風は湿っていたが、盛夏を過ぎ、気温は低い。やがて港湾道路の地平に浮かんでくるだろう電車のヘッドライトを待つ。足元に置いた小さな鉢植えを気にしながら。
火曜日、朝、午前九時。足元の鉢植えは、あの温室から持ってきたアマリリスが一輪。暑さや陽射しに弱い春の花だったはずだ。真琴に頼んで子どもたちから断熱材を織り込んだ保温袋を借り、それにアマリリスを入れた。子どもたちは鳴海があの部屋からアマリリスを一輪持ち出したいと言ったとき、反対はしなかった。鳴海が誰に花を贈るつもりなのか、何も言わずともわかっていたようだった。沙耶香という少女が言った。(寂しい)。真琴だけが詮索の上目遣いを鳴海に向けていたが、先回りが得意技の彼女がわかっていないはずもなく、鳴海は子どもたちにお礼を言い、真琴は適当にあしらって、稲村から外出許可をもらい、そしていまこのプラットホームに立っている。
港湾道路の彼方の陽炎に揺らめいて、ヘッドライトが明滅した。電車だ。レールがかすかにささやきだした。電車が走ってくる。火曜日、午前。彼が乗ってくる電車だ。
鳴海は怜を待っているつもりはない。あくまで街へ向かう電車を待っているのだ。<施設>から街へ出るには、電車に乗るほかはターミナルまで歩くしかない。盛夏を過ぎたとはいえ、この陽射しの中を歩いて行く気はしなかった。アマリリスではないが、自分自身も暑さと陽射しには弱い。というより、慣れていない。案の定、十五分ほど立っているだけで、じっとりと首筋に汗が浮いてきた。まだ午前だというのに。足元のアマリリスが気になった。
電車が近づいてくる。稲村に借りてきた電車代をポケットでちゃらちゃらと鳴らし(稲村が硬貨を持っていたことが少し驚きだった)、鳴海は乗車位置に並んだ。たったひとりで。やがて電車の行き先表示がくっきりと読めるまでになり、運転士の表情までも読み取ることができる。電車がゆっくりとプラットホームに滑り込んでくる。鼻先をかすめるようにして停車した電車の窓に、怜の驚きを隠そうともしない表情が浮かんでいた。鳴海はドアが開くまで彼の表情を見上げていた。
「こんにちは」
ドアが開き、怜がプラットホームに降りてくる。
「おはよう、じゃないのかな。まだ眠い」
低い声。数日ぶりの怜の顔色は、陽射しの下で健康そうに見えた。
「どうして、こんなところに?」
怜が言う。意外に平淡だ。
「電車を待っていたの。お見舞いに行くの。これを届けに」
電車は発車時間待ち。
「それは?」
「アマリリス」
「花?」
鳴海はだまってうなずいた。
「お見舞いって、誰にだい?」
「有田さん」
「有田さん? あの病院へ行くのかい?」
うなずく。
「こう言っては悪いが、君ひとりでは面会させてくれないよ。IDは持っているのかい?」
「持っていないわ」
「じゃあ、無理だ」
「無理じゃないわ。白石さんも一緒にきてくれれば」
「僕も?」
「そのつもりで、待っていたの。あなたのIDが必要なの」
鳴海が言うと、怜はかすかにのけぞるようにして目を開いた。そして、笑った。
「意外だ」
「なにが?」
「なんでもないさ。……けれど、僕はこれから稲村先生とカウンセリングだよ。一時間待っててくれれば」
「花が弱ってしまう」
「断熱シートにくるんであるのに?」
怜の追及に、鳴海は沈黙で答えた。
「稲村先生に一言言ってからなら」
「伝えてあるわ」
「僕を『拉致』するってことをかい」
「ええ、そうよ」
そう鳴海が言うと、怜は苦笑を浮かべ、嘆息した。
「意外だ」
怜はそれだけ言うと、くるりと踵を返し、電車のデッキに足を載せていた。
「いいの?」
「いいさ。そのつもりだったんだろう」
電車の中はずいぶん暗い。鳴海も怜につづく。
「電車代は持っているのかい?」
うなずく。
「そうか。……天気がいいね。空が高いよ」
鳴海はアマリリスを抱きしめるように、そして怜からわずかに離れて、シートに座った。
発車。低いモーターのうなり。揺れる吊り輪、空きスペースだらけの広告。
「お見舞いに鉢植えとはね。……君らしい気がする」
終点の電停が遠ざかっていく。怜は鳴海が抱える鉢植え越しの窓に、<施設>の風車を探した。きょうは回っているのだろうか。あの風力発電装置は。



