夏の扉
けれど鳴海は廊下の暗がりに融けた明日香の顔が見えない。おそらく彼女だろうと、鳴海が勝手に思っているだけなのだけれど、二階の人影が明日香であるという確信が鳴海にはあった。
鳴海はエントランスの扉を開け、自分の家に入った。ひんやりしているのは空調のせいだけではない。ここはもともと温度が低いのだ。受付にはカーテンが引かれ、あの女の子の姿は見えない。彼女もまた鳴海や明日香と同じ、ここの入所者だということは、もうずいぶん前から知っていた。病状が改善され、社会復帰を視野に入れた職業訓練もまた<施設>で行われている重要なカリキュラムのひとつだ。明日香や自分が<施設>の事務や維持管理の職についていないのは、ようするにまだ病気が治っていないからだ。けれど、一日受付の小さなボックスの中で延々とキーを叩き続けている彼女にしても、よもや病気が完治しているとは思えない。結局みんな終わりのない不思議な病気にかかってしまったのだ。老婦人が身体的病でここを出て行けたのは、ある意味幸運かもしれない。自分から出て行く人間はいない。だから、むりやり出て行かされたのだ。
鳴海は階段を上った。残光がまだ踊り場で水溜りのようになっていて、そこをよけるようにして階段を上る。談話室にはレースカーテンが引かれていて、読書青年がめずらしく、本と目を閉じていた。明日香も真琴もおらず、チェス盤をはさんだふたりが低く談笑していた。ほかには誰もいなかった。明日香が自分を出迎えてくれるかと十数えるほどの時間、談話室の入り口で待ってみたが、明かりのない廊下は外の夕焼けにくらべて夜の闇のようで、リノリウム張りの廊下はますます水路のように見えた。鳴海はそのまま屋上へ通じる階段を上った。
壁の手すりは木製で、触れると暖かかった。鳴海はもう覚えていないくらい人肌に触れたことがない。けれども、触れ、握った手すりのぬくもりは、記憶の底に沈んだ誰かの手のひらの温度に近いような気がした。鳴海はそんな考えをあの白い部屋のフラッシュ・バックの呼び水だと考えていたから、歩調を速めて階段を上る。屋上への扉は重いがすぐに開いた。
昏かった階段室からまだ夕焼け空が残る屋上へ。目が回るほどに空間が開けていた。とたんに涙が出そうになる。それは瞬く街の光を知らず知らずのうちに数えてしまっていたからだ。すっかり日は沈んでしまったものと思っていたが、雲に隠れただけだったらしい。太陽はまだ山の稜線ぎりぎりに浮かんでいた。風は怜と見た海の匂いがして、湿気も多少含んではいたが心地よかった。そこでも鳴海は自分に驚いた。鳴海はいま、たしかに「心地いい」と感じた。自らそう思った。それが意外だった。屋上のコンクリート張りの床の上を何歩か進む。
首をめぐらすと温室と風車が見える。風車はわずかな海風にプロペラを回していた。風切り音は聞こえない。ゆっくりゆっくりと回っていた。初等科の授業か何かで見た、今は国土のほぼすべてが海中に没してしまった欧州の国の代表的風景を思わせるような、プロペラの回り方だった。
鳴海は温室に向けて歩いていた。あの子どもたちはいるだろうか。いて欲しくない。そう願いつつ、歩いた。引き返すことは考えなかった。何も用はなかったが、鳴海は温室の扉を開いた。風が吹き出してきて、一瞬涙が浮かぶ。そして、花と緑の濃密過ぎる芳香。子どもたちの「世界」の中へ、鳴海は分け入る。
ずいぶん広い。天井はさほど高くないが、それにしても広い。いくつかの部屋に分かれているようだが、一つ目のこの部屋はずいぶんと広い。通路が放射状に中央に向かって収束している。鳴海は名前もわからない花が咲き誇る通路を、中央に向けてゆっくりと歩く。トラスに組んだ温室のドームの向こうに、雲から顔を出した鮮やか過ぎる夕日が見えた。幾千もの葉の葉脈が夕日に透けていた。温室の中だ、風は吹かない。そこで鳴海は思った。ここの植物たちは風に吹かれることを一切知らない。風を感じたこともないのだろう。けれどそれは自分も同じようだと思った。一日を<施設>の自室か、談話室、さもなければカウンセリングを受けるために診察室の椅子に座る。風は吹かない。
鳴海はゆっくりと今歩んできた通路を振り返った。通路は気づかないくらいのカーブを切っていたらしい。温室の入り口は繁みに隠れて見えなかった。クチナシの花が香っていた。普段かいだこともない、胸がすくような香りだった。そこでまた鳴海は気づいた。自分は風を感じたことがある。自然に足がステップを踏んだ。中庭だ。あそこは唯一、<施設>の中で風を感じることのできる場所だ。窓を向いているだけではわからない、季節の移ろいや匂いを、あそこでは感じることができる。鳴海は通路にしゃがみこみ、クチナシに頬を寄せた。
「いい匂い」
自分の声をひさしぶりに聞いた気がする。自然に口をついて出たセリフだった。
通路はまだ奥へつづいていた。まだ鳴海は温室の正確な規模を把握してはいなかった。環状線を歩いているのか、放射線を歩いているのか。繁みに視界を奪われ、見上げる天蓋はどれも同じトラス構造で、方角といったら、スポットライトのように差しこむ夕日で確認する以外にない。鳴海はもう方角などどうでもよくなっていた。おそらく初めてさまよう温室のなかの「森」を、鳴海はなぜか懐かしく歩いていた。
建物の中だ、いくら歩いたといっても限りがある。温室の広さなどたかが知れている。そんな限りあるはずのドームの中で、鳴海はさらに小さな部屋を見つけた。
温室の天蓋や外壁は、特殊な強度を持たせた複合素材と太陽光発電パネルで構成されている。鳴海は構造や素材には興味がなかったが、それでも目の前に現れた小さな部屋の入り口が、簡素なビニールか何かでできているであろうことは一目でわかった。扉の枠は木でできているらしい。ところどころの塗装がはげ、毛羽立っていた。通路は部屋の手前でぐんと細くなっていて、両側から張り出した繁みに隠れるようだ。ちょっと歩いただけでは気づかず通り過ぎてしまうかもしれない。鳴海はヒナゲシに頬を寄せ、そして顔を上げたときにこの白い枠の扉を見つけたのだ。
扉には鍵も何もかかってはいなかった。ビニールはすりガラスのようで、扉の向こうは見えなかった。鳴海はわずかな躊躇の後、扉に手をかけた。軽い。指先のかすかな動きだけで扉は開いた。
そこは小さなビニールハウスのようだった。複合素材の天蓋につつまれた温室の中で、繁る樹、花、草に埋もれるようにしてその部屋はぽつんと建っている。三メートル四方もない小さな部屋だ。それでもビニールハウスの中もまた、空調が効いていた。簡単で単純な、小さな空気清浄機のようなエアコンがしっかりと稼動していた。部屋の中と外では、はっきりとわかるほどに気温差がある。春の匂いがした。ここは、春だ。
小さな部屋の中に、小さなテーブルと椅子、イーゼルとキャンバス、テーブルの上には空のマグカップ、そしてそれらを囲むようにして、背の高い花がいくつも咲いていた。小ぶりなプランターから、薄い緑色の扁平な茎、葉は見えず、その茎の先に大きな花が咲いていた。
鳴海はその花を知っていた。初等科の教室で、担任の教師が育てていた花だったからだ。



