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夏の扉

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 五秒、十秒。怜は彼女の返答を一応、待った。どんな言葉が返ってくるか、気になったからだ。二十秒、三十秒。怜は背中に視線を感じていた。お互いの距離が近ければけっして感じることのない、それはいくぶん遠くから放たれた視線だ。怜は振り向いた。
 アトリウムの樹……それは大木と呼んでも差し支えない大きさだった……がまず縦方向に怜の視界に飛びこむ。そして鳴海がやけに小さく見えた。彼女とはもう十メートル以上離れていた。それが怜と彼女の距離なのだろうか。怜は離れてしまった鳴海を向いただけで、彼女のもとへ歩み寄りはしなかった。鳴海もまた、まっすぐに怜を向いて、まだ歩きだそうとはしなかった。
 どれくらいそうして立っていたのか、怜は鳴海を振り向いたとき、それまでのカウントを止めてしまっていたから、わからない。けれど少し長い時間、ふたりはただおたがいを向いて突っ立っていた。差し込む陽射しは強いはずなのに、気温は心地よかった。コントロールされている。鳴海の背後に立っているあの巨木ですら、水耕栽培に違いない。あれだけの荷重を支える水耕栽培の方法があるのかどうか怜は知らなかったが、土の匂いがまったく感じられないのだから、間違いない。鳴海が置いたコスモスは、彼女の陰に隠れて見えない。見舞い客には到底見えない療養服姿の子どもがふたり、意外なほど元気に駆けていく。馴染んでいたはずの世界、それは怜が<施設>に通いはじめるまで身を置いていた世界のはずなのに、いま彼は居心地の悪さを感じていた。それは違和感と呼べるほどではなかったが、<施設>に通ったわずか数ヶ月で、怜はどちらの世界に対しても違和感を感じるようになっていた。
 何かが狂っている。
 それは、いま鳴海の背後を駆けていく療養服姿の子どもたちであり、<施設>の温室で出会った子どもたちであり、鳴海であり真琴であり、明日香もまた狂っていた。もちろん自分も狂っていた。指摘はできないけれど、すべてが狂っている、そう思った。それが違和感を感じる原因だ。
 鳴海は怜の言葉に結局応えてくれないつもりらしい。怜は鳴海に微笑んでみせた。
「帰ろう、鳴海さん」
 言うと鳴海はようやく歩き出した。
「稲村先生は日が暮れるまでに帰ってくるようにって、そう言っていたんだ。もう夏は終わりだよ。あっという間に日が暮れる。早く帰ろう。……きっと、みんな鳴海さんを待ってる」
 言いながら怜は、明日香の怒った顔を思い出していた。明日香は自分に言った。鳴海のことが好きなのだろう、と。けれど怜は思っていた。むしろ明日香自身が鳴海のことを好きなのに違いない。明日香を見ているとよくわかる。
「帰ろう、さあ」
 鳴海は彼の言葉にうなずくわけでもなく、かすかにうつむいて歩く。彼女はコスモスも樹も振り返らなかった。


   五二、アマリリス

 眺めていると涙が出そうになる。
 電柱も架空線もセイタカアワダチソウの群生も、もちろん<施設>も風車も何もかもがシルエットに切り取られていた。金色に染められた雲は、ジャンプすれば届きそうなところで漂っている。息を潜めたくなるような夕焼けだった。
 怜は鳴海を<施設>で降ろし、自分は車からは一歩も出なかった。鳴海は一言(さよなら)と呟くと、それっきり怜を見下ろすように立ち、何も言わなかった。それでも怜が驚いたのは、車を降りた鳴海が、しばらくそのまま車寄せにとどまっていたことだ。影を伸ばし、髪を夕焼けの茜色に透かせて。
 アイドリングは安定していた。あの基地の片隅のガソリンスタンドは、たしかに品質にはある程度のこだわりがあるらしい。怜は(また、来るよ)とだけ言い、わざと笑顔は作らなかった。夕方になっていくぶん涼んできた風が頬に心地よく、鳴海に別れを告げるためだけに開けた窓を、そのままにして走り出した。<施設>を出、草がたくましくもアスファルトを割って顔を出している細い道路でかすかなタービン音を耳にしながら、怜はルームミラーを振り返った。すると鳴海はまだ怜を見送っていて、怜はガスペダルから足を離した。そしてポンプ場の角で車を止め、そして降りた。
 本当に見事な夕焼けだった。そして怜は、季節がたしかに夏から秋へと流れていることを実感する。日が確実に短くなっている。西からの陽を浴びて、怜は<施設>に目をこらした。取り立てて悪くもないが、けっしていいわけでもない怜の視力では、車寄せにまだ立っている鳴海の表情などは見えなかった。ただ、あのコスモスを振り返ろうともしなかった彼女の表情が思い起こされて、怜は閉めたドアにもたれかかった。エンジンはかけたままで。
 <施設>の屋上に視線を転じた。あの温室は見えるだろうか。二階建ての<施設>の屋上に、ドーム型の温室が載っている。そして三連の風車が大きい。見れば<施設>の建物は、三基の風車に寄生しているようにも思えるのだ。頬を相変わらず潮の匂いの混じった風がなでつけていく。目をこらすと、三連の風車はわずかだが日暮れどきの風を受けて回転しているようだった。微風でも回転し、効率よく発電する。結局前世紀に夢と騒がれた常温超伝導が結局夢に終わってしまい、抵抗が少なく効率のいいモーターの開発は限界に達したが、それでも<機構>が各地に建設している風力発電所の発電機は、前世紀末のものと比べると格段に性能が違う。
 怜のまわりを小さな羽虫が飛びまわっていた。このあたりはもともとが湿地帯なのだ。この羽虫たちは水辺で生活する種類だ。道路から一歩はずれれば、そこはもう足首までも沈みこむ湿地かもしれない。
 鳴海はまだ立っていた。怜もまた車に身体をもたれて夕焼けをながめていた。<施設>までは遠かった。引き返す気にならないほど、遠かった。
 怜は短く嘆息すると、ようやくドアをふたたび開け、シートにもぐりこんだ。ベルトをしめ、ガスペダルを踏み込む。もう、ルームミラーは振り返らなかった。ささやかながら、コスモスを振り返らなかった鳴海の真似をしたつもりだった。
 僕も君も同じだ。誰もが「終わり」を「見て」いるんだ。
 電停の交差点に差し掛かったとき、ぽつぽつと街灯が灯りはじめていた。

 二階から誰かに見られているように感じた。けれど鳴海は怜の車がポンプ場の角を曲がったあとも、まだしばらく車寄せに立っていた。見送っているつもりはなかった。なんとなく、<施設>に戻る気がせず、夕焼け空の下に立っていたかっただけなのだ。
 怜の車が電停の角を曲がった。それは高まる彼の車の排気音でなんとなくわかった。そこでようやく、鳴海は顔を二階に向けた。いつもの場所、いつもの窓、そこに人影が見えた。きっと、明日香だ。彼女なりに、鳴海を出迎えているつもりなのだろう。
(ただいま)
 考えれば、鳴海はその言葉をずっと忘れていた。そんな言葉があるのだということも忘れていた。帰宅を告げる言葉だ。するとここが自分の家なのだろうか。自分の場所だと、仕方なく確保している自分の世界だと、鳴海は<施設>のことを思っていた。けれど、いま、自然に明日香に対してその言葉が出た。
(ただいま、明日香ちゃん)
作品名:夏の扉 作家名:能勢恭介