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夏の扉

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 怜の前の墓標は、杭のような細い石の柱を地面に刺しただけの簡易的なものだった。墓石の前には、手のひらほどの大きさの歯車と、一本のドライバーが供えられていた。ここに葬られた彼……男だという根拠はないが……は、おそらくはエンジニアだったのだろう。怜は手を合わせはしなかった。だが、軽く一度だけ、頭を下げた。
「涼しくなったわね」
 老婦人が言う。
「まだ三〇度以上ありますよ」
 届いた声に怜は応えた。しゃがんだまま。
「もうすぐ八月も終わるわ。もう、秋よ」
「あと二週間はありますよ」
「二週間なんて、あっという間よ。そう、<施設>にいたころはカレンダーも見なかったけれど、気がつけば夏になっていて、気がつけば夏が終わっていた。そんな生活だったわ。あそこでは時計がいらなかった。もっともわたしは、時計が必要になるような生活を、結局この歳まで一度も送らなかったけれどね」
 怜はしゃがんだまま、エンジニアの墓標を一度、なでた。そして、歯車の歯を、ひとつひとつ指先で感じた。本物の歯車なのか、遺族が用意したイミテーションなのか。たとえば、自分が葬られたとしたら、墓碑にはなにが飾られることになるのだろうか。ガイガーカウンターか、気圧計か。およそこの墓地には似つかわしくないそれらの機器を、自分は飾ってもらいたいと願うのだろうか。すべてが終わってしまったそのときに、自分はここから沈んでしまった街を眺めるのだろうか。
「こんな場所にお墓なんて……」
 思わずつぶやいていた。
「気に入らない?」
「これから沈んでいく街を、ここでこうしてずっと眺めているなんて、きっと僕には苦痛ですよ」
 立ち上がった。虫の声が遠ざかった。
「そうかしら」
 鳴海はずっと街を望んだまま。髪が風に吹かれて細かく舞っていた。
「きっとじゃない。僕には苦痛だ」
 しゃがんだままの怜と、意外に顔色のいい老婦人。後姿の鳴海は動かない。
「帰りましょうか。風が出てきたようね」
「かえって涼しいくらいですよ」
「海風に当たりすぎると、身体に悪いわ」
 発電所の事故のことを言っているんですか。怜は危うく出かかった言葉をあわてて飲み込んだ。
「もう、夏は終わりよ」
 言うが早いか、老婦人は一瞬ひどく寂しい表情を怜に投げてよこし、さっと踵を返した。
 怜は老婦人が歩きだし、肩に触れるほどに繁る草の陰に彼女の白髪がまぎれてしまうまで、しゃがみこんだままだった。墓標と墓標の向こうに、街が見える。ぽつぽつと並んで建つビルが、そう、やはり同じように墓標に見えた。一歩一歩遠ざかる老婦人の足音を後ろに聞きながら、それでもまだ怜は立ち上がらなかった。
 鳴海がまだ、岬の突端にたっていたからだ。

 コスモスが咲いていた。
 怜が花束を見つけたのは、老婦人の病室を出、廊下を進んだ先のホール、吹きぬけた天蓋に向かって伸びる一本の樹の下だった。鳴海は言葉も少なく、怜が花束を見つけて鳴海を振り向いても、何も言わなかった。
「鳴海さん」
 怜はコスモスを拾いあげたりはしなかった。まるでこの空に向かって伸びる樹が、誰かの墓標であるかのごとく、そこに供えられた花束を、怜は立ったまま、見下ろしていた。
「どうしてだい?」
 鳴海はステップを踏んでいた。いつかあの春の日に見た軽やかなステップではない、憂いとけだるさをたっぷり含んだ、ゆるやかなステップだ。
「有田さんの部屋には、似合わないから」
 手折られたコスモスはまだ、可憐な色をたもっている。花弁の穏やかな色と、みずみずしい葉の色が対照的だ。手折られてなお、みずみずしい。
「活けておけば、しばらく持つよ」
「いつかは枯れるわ」
 鳴海はきょうはじめて、怜と並んだ。
「鳴海さんなりの、心遣いなのかな。それは」
 ホールにはかすかな空気の流れがあった。天蓋は空と地面で遮断されていて、だから風が吹き込んでくるはずがない。空調か。意図的な風なのだとしたら、ここは地球の周回軌道上に浮かぶ長期滞在型中継基地と同じだ。長く風や太陽などの刺激を絶たれた人間は、精神や肉体に変調をきたすという。無刺激症だ。だから、意図的な気圧差を利用して風を作る。無重量空間では熱による空気の対流も発生しないので、そうしたシステムまでが必要になる。怜は廊下のところどころに穿たれた窓の向こうに目をやる。
「快適だね、ここは」
 風に震えるコスモスの花弁を見下ろして、ふたりは並んで立っている。
「汗ひとつかかない。寒くもない。……僕の部屋と似ているよ」
「白石さんは、こんな部屋に住んでいるんですか」
「ちょっと違うけれど。けれど、似ているよ」
 怜が答えると、鳴海は唇の端を少しだけ持ち上げて笑った。いや、微笑んだ。
「白石さんの部屋にも、こんな樹が立っているんですか」
 見ると、空に向かって立つ目の前の樹の、幾重にも繁る枝葉もやはり、低気圧に向かって吹き込んでいく空気に細かく震えていた。
「僕の部屋には、樹は生えていないよ。何にもない部屋だ」
「わたしの部屋みたいに?」
 そう言って鳴海は、怜に目線を合わせた。
 怜は彼女の視線を受け、そらしたくなる顔をそのまま鳴海に向けていた。
「もっと、無機質だよ。鳴海さんの部屋みたいに、スケッチブックだとか、そうだね、僕宛に誰かが手紙を送ってくるなんてこともない」
「それが、いいことなのかわからないけれど」
「寂しくはないさ。君は誰かとつながっているんだ」
「寂しいの?」
 怜はそこで数瞬、呼吸をとめた。鳴海の言葉にとめられた。
「さあ……。寂しいと感じたことはないよ。鳴海さんは、寂しいのかい」
 鳴海に向けて軽く放ったつもりのセリフは、彼女にとっては直球すぎたのかもしれない。ふと目をそらし、目を伏せた。
「わからない」
 まだ震えつづけるコスモスは足元で、目の前の樹は不思議と匂いがしなかった。
「わからない?」
「寂しいってどういうことなんだろう」
 目を伏せた鳴海は瞬きをしない。だからレンズのように見える。
「感じたことはないのかい? 誰かと話をしたくなるとか、そんなことをさ」
「ないわ」
 抑揚もなく転がり落ちていく鳴海のセリフは平淡で、あまりに細かく散っていく言葉のひとつひとつは拾うことができなかった。
「君と話をしても、いつも堂々めぐりになるね」
 苦笑を含ませて、怜が言う。それに対する鳴海の応えはなかった。
「きっと、これからもずっと、……鳴海さんが見てるものは、僕には見えないんだろうな」
 怜はそう言うと、短い嘆息をコスモスに向けて、一方的に歩き出した。
「けれど、たとえば君の兄さんから手紙がこなくなったら、寂しいと思わないのかい?」
「思わないわ」
「嘘だね。君は寂しいと思うはずだよ。……君が見える『終わり』をね、きっと僕も見ているんだと思う。僕たちはあきらめが早いんだ。すべてが終わってしまうのはしかたがない。花は枯れていくし、……人も……同じだよ」
 爆弾だった。言っていいのかどうか、その言葉を口にする本当に直前、怜は考えた。彼女に伝わってしまっていい言葉なのかどうか。そう思ったが、言った。
作品名:夏の扉 作家名:能勢恭介