夏の扉
丸い丘だった。老婦人は本当に発電所の事故の後遺症が深刻なのだろうか。驚くほど軽快に階段を上がっていく。階段は級で、ふと振り返るとずいぶん眼下に鳴海の黒い髪が風になびくのが見えた。怜は立ち止まり、鳴海を待った。なのに彼女は、階段の中腹で待つ怜を見上げようとはしなかった。
「白石さん、こっちよ」
老婦人の穏やかな声が風にのる。声が届いてから十数えた。その間、鳴海を待った。けれど鳴海はその猶予に、怜のそばまで到達できなかった。仕方なく、怜は向きなおり、老婦人を追った。そして、階段を上りきった先が何なのか、ここがどこなのかを知った。
「お墓……?」
怜は階段を上りきったところで立ち止まっていた。声を出すことも忘れ、おそらくは鳴海のような、表情と呼べる表情を失った顔をして。だから、丘の上に広がる空間が何なのか、そこに言及したのは鳴海だった。
「お墓だね」
鳴海が教えてくれた。怜は彼女に応えるようにして言った。
市街地、海岸線、そして遠くの原生林まで見渡せる丘の上には、墓地が広がっていた。墓地といっても、華美な墓標が並んでいるわけではなかった。コンクリートか、あるいは樹の柱、一枚板から十字架まで、ここは宗教を無視した墓地だった。老婦人は丘の先、市街地が海ならばちょうど岬に当たる場所に立っていた。
「有田さん」
「ここは見晴らしがいいのよ。ほら、あそこ」
老婦人の指はしわだらけだった。いくら<機構>が研究施設を莫大な資金を投じて建設して、水の中や砂漠や無重量の宇宙を穀倉地帯に変えることができたとしても、老婦人の指や表情から、その深く刻まれたしわを取り除くことはできいにちがいない。人が生きていく時間、記憶そのものを止めることができないのと同じだ。
「風車」
鳴海は老婦人の指先をたどって、大きな空色のプロペラを見つけたらしい。
「<施設>?」
怜も見つけた。屋上で回転をつづける三連の大きな風力発電のプロペラを。陽を受けてきらめいているのは、あの温室だ。
「ええ、そう。あそこね。こうして見ると、ずいぶん近いでしょう」
野原にこんもりといくつかの繁みがあり、それはおそらく小さな雑木林なのだろうが、ここから見ると、野原の繁みにしか見えなかった。楊枝のような電柱が並び、碁盤の目の道路と途切れ途切れの送電塔。そのパターンの中に、<施設>は建っていた。
「ここは鏡のどちら側かしらね」
老婦人はそう言って怜に微笑みかけた。
「そうでなければ、ここは川の向こう岸なのかしら。いつのまにか、川を渡ってしまったのかしら?」
鳴海が岬の突端まで進んだ。風が吹き、彼女の匂いがした。真水の匂いだ。
「もしそうなら、この三人で岸に立つとは思っていなかったですよ」
正直な感想だった。そしてそのとき怜は、自分が<施設>に同化しようとはまったく考えていなかったのだと気づいた。明日香に(あなたは街の人間だ)と言われたこと。老婦人に目の色を指摘されたこと。自分は<施設>の人々を理解しようとした。自分と、鳴海や明日香、真琴たちとがどう違うのかと自問したりもした。それはしかしすべて無意味だった。怜は自覚していたのだ。自分は<施設>の人間ではなく、街の人間だと。あきらめが悪く、海岸線の拡大を心から憂いている統合社会管制機構の人間だということを。失われたものを取り戻そうと、取り戻すことなどかなわないのだとわかっていながら、そのあいだも手のひらからこぼれ落ちていくよく知った風景を、拾うことはできても並べなおすこともできず、ただ見送るしかないのだということも。
「昔はね、ここは公園だったのよ。見晴らしがよくてね。わたしが鳴海さんよりももっと若いころ、友達と遊びに来たことがあったわ。晴れていれば、海まで見えた。もちろん、海岸が広がる前の話だから、海は今よりもう少し遠かったわ。夜は夜景がきれいだった。……懐かしいわ」
そう言って老婦人はその場にしゃがみこんだ。虫の声がする。
「いつから、その公園が、お墓になったんですか」
煙草は車のグローブボックスの中に入れたまま、置いてきた。怜は手持ちぶさたの右手の中で、ライターを指先でなでていた。
「さあ、いつかしら。憶えていないわ。発電所の事故のあとかしらね」
岬の突端から振り返ると、丘陵にびっしりと墓標が並んでいた。それは森の入り口で唐突に途切れ、そのまま森は斜面を駆け上って山頂へ向かう。
「わたしの知り合いもここにいるのかもしれないわ」
「……あの事故で、誰か亡くなったんですか」
「かもしれない。わたしはずっと<施設>にいて、よく知らないのよ。鳴海さん」
老婦人は岬に立つ鳴海に呼びかけた。歩み寄る。
「あの花束、持ってこなかったのね」
そこでようやく鳴海はふたりと対面する。
「べつにね、ここに供えようと思ったわけじゃないのよ。ただあなたが、あのコスモスをどこに置いてきたのか、気になったものだから」
老婦人は鳴海に並んだ。
「来てくれて、どうもありがとうね。もう会えないと思っていた」
怜は一歩引いて、ふたり並んだ向こう側の市街地に目をやった。まだ人が住んでいる、にぎやかな家並みを。けれどやがて眼下の街も沈んでしまう。自分たちがどれほど手を尽くしても、たとえ世界が変わっていくスピードが今止まったとしても、その巨大な慣性は、簡単にはエネルギーを失わない。これからいくつの街や地域、国が住んだ海の底に沈んでいくのか、怜にはわからない。世界中の見慣れた風景が、ひとつひとつ確実に失われていくその出来事を、怜や<機構>は止めることができない。
「あなたは、優しい子です」
老婦人が鳴海にそう言ったのを、怜は聞いた。老婦人の言葉を受けて、肩まで伸びた髪を振り、まるで悪夢から覚めたことに気づいていない子どものような顔をして、鳴海はいくつもしわの刻まれた老婦人を向いたのを、怜は見た。
老婦人は言葉を続けず、おびえたように見返す鳴海を向き、微笑むでもなく瞬きもせず、ただ立っていた。
怜はふたりから離れた。砂を踏む。足跡が残る。足元の砂は、もはや海岸では見られなくなった目の細かいものだった。飛ばされてここに積もったのだろうか。
「わたしが、優しい?」
かすれた鳴海のつぶやきは、虫のささやきにまぎれこみ、かろうじて怜の耳に届いた。
老婦人は目を細めて青白い顔の鳴海を見つめるだけで、ひとりごとのような彼女のセリフに応えようとはしなかった。
「わたしが、優しい……?」
「優しくないひとなんて、この世の中にはいないのよ。きっと」
それはあまりに痛々しいセリフだった。優しさに満ちたこの空間にいて、怜の胸がかすかに痛んだ。怜は、意味もなく目の前の墓碑に、かしずくようにしゃがんだ。
おそらく老婦人の言うとおりなのだ。とりわけここのような、優しさに満ちた場所では。墓地を訪れる人間は、いったいどんな人間だ。そこに眠る自分に近しい存在に、寂しさをぶちまけるか、あるいは悲しみの涙を流すか、そうでなければ在りし日を思い起こして祈る場所だ。そこを訪れる人間は、きっと、みな、優しい。



