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夏の扉

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 明日香が怜を呼ぶように、老婦人は名前で彼を呼ばなかった。それでも怜はいやな気がしなかった。なぜ老婦人がここに収容されたのか、それを容易に知ることができるのは、<機構>のメンバーに限られる。それを老婦人は彼女なりに茶化してみたのだろう。
「元気そうです」
「このあいだは、ちょっと調子が悪かったのよ。風邪を引いたようなものだったの。鳴海さんには心配をかけたわね」
 鳴海は部屋と廊下の境目で、コスモスに顔をうずめるように突っ立ったままだ。
「鳴海さん」
 怜は振り向いて彼女をまねく。それでも鳴海は一歩も動こうとしなかった。まるで機嫌を損ねた幼い子どものように。
「居心地はどうですか。あの<施設>とくらべて」
「知り合いがひとりもいないのって、気楽だけれど寂しいものね。あそこでもそんなにみんなと話をしたわけじゃなかったけれど、知った顔がひとりもいないのって、それはそれで寂しいわ」
 そう言いながらも、老婦人は手放しにふたりの来訪を歓迎する姿勢は見せなかった。かすかな拒絶を、怜は感じ取っていた。それが自分に向けられた拒絶なのか、鳴海に向けられたものなのか、ふたりに向けられたものなのか、笑顔が邪魔をする。
「具合は、いいんですか」
「風邪を引いたようなものだといったでしょう。大げさなんですよ、稲村先生も河東先生も」
「それだったら……、安心しました」
 怜は椅子に座る老婦人の正面に立った。窓が大きい。嵌め殺しで、森の向こうの旧市街地がよく見えた。なるほど、建物が放射状に建っているのはそういう理由か。
 穏やかな女性の声で館内放送がかかる。誰かが誰かを呼んでいる。ここではそういう人間関係がある。良くも悪くも、ここは<街>なのだ。
「至れり尽せりで、かえって居心地が悪いわよ」
 ポットから紅茶を注ぎながら、老婦人は笑った。あなたも飲む? 老婦人の目がそう訊いていたが、この部屋に入院者以外のマグカップがあるとも思えなかったので、あえて無視した。鳴海はドアに寄りかかり、じっとこちらを凝視していた。その目が、まさに監視カメラのレンズに見えて、怜は表情を鳴海と自分の間に置き忘れたことに気づいた。あるいは彼女が怜の表情を奪ってしまったのかもしれない。彼女に向かって言うべき言葉、向けるべき表情が思いつかないのだ。なぜ、そんな顔をしている? 鳴海という少女がわからない。ひとたび感情が高まると手がつけられない。なのに普段は手のつけどころがない無表情だ。あの芝生で見せた笑顔、ひまわり畑で見せた表情は何だったのだろうか。
「鳴海さん、元気そうね。まだ、『終わり』は見えるの?」
 監視カメラは瞬きもしなかった。老婦人の言葉に返事もしなかった。老婦人はそれを意に介することもなく話し続けた。
「西さんは相変わらずラジオを聴いているのかしら。ここはいいわよ、有線で気象通報が聴けるわ。今度は、あの子も連れていらっしゃい。芹沢さんはどうしているのかしらね。西さんと一緒に建てている家はもうできたのかしら。どう? 鳴海さん、何か聞いている?」
 怜は鳴海に向かって話し掛ける老婦人の言葉がすべて、鳴海に対する攻撃のように聞こえた。憎しみも悪意も何もない、攻撃。鳴海に対してではなく、鳴海の中の誰かに対して。よくはわからないけれど。
「ここは見晴らしがいいのよ。白石さん、ここへいらっしゃい」
 老婦人は怜を窓辺に招き寄せた。それに従う怜。
「手稲から石狩、あれがテレビ塔ね。まだ建っていたのね。天気のいい日は、江別のずっと向こうまで見渡せるのよ。今は一日、こうして外ばかり見ているわ。ここには談話室みたいな場所もなくてね」
 手のひらでマグカップを包み込み、老婦人は窓に目をやる。斜面を下っていくと、ぎっしり詰まっていた家並みがまばらになる。平野に出たとたん、それは途切れ、緑の海が地平線までつづく。ぽつりぽつりと送電塔が並んでいるのが見えるのは、<施設>の屋上からの風景と同じだが、高度が違った。本当に見晴らしがいい。
「どうでしょう、外へ出てみましょうか。内緒だけれどね、ときどき散歩をしているのよ。建物を出るとね、いい散歩道があるのよ」
 言うと老婦人はマグカップをナイトテーブルに戻し、立ち上がった。発電所の事故の後遺症が深刻だとはとても思えなかった。
 鳴海はまだだまっていた。


   五二、樹

 空港の搭乗ゲートのようだったエントランスを入ったときにはIDをチェックされたのに、老婦人の案内で病棟から出るときは受付も何もなかった。裏口。それが病棟の出口だった。
 先頭に老婦人、一歩あとに怜、だいぶ離れて鳴海がつづく。建物の外は夏草が生い茂り、幅一メートルほどの小道の両側からは、虫の声がひっきりなしに聞こえた。今が夏なのか、それとも秋なのか、首筋をつたう汗を二度三度ぬぐいながら、むっとする草いきれに息を詰まらせながら、怜は考えていた。
「ときどきね、散歩をするのよ。あの部屋にいると息苦しくてね。ここにも談話室はあるんだけど、にぎやかすぎて。わたはね、さびれた集会所みたいだったあの談話室がお気に入りだったのよ」
 振り向くこともせず、老婦人は淡々と話す。淡々と歩く。斜面につづく道は、意外と景色は開けていて、右手に市街地、そして左手は山と森。うねる小道の向こうに行き交う車の姿もない高速道路が見える。
「どこへ行くんですか」
「着いたらわかるわ」
 鳴海はまだ無言だった。土を踏みしめる足音が怜の後ろに続いていて、だから鳴海はまだふたりから離れず、しかし近づこうともせず続いているのだとわかる。怜は一種の既視感を抱いた。前を行く老婦人が、大きなバッグを持った男へゆるやかに形を変え、右手に広がる市街地が、腹立たしいほどにまぶしい青い海だとするならば、やがてこのパーティは風車の回るひまをり畑の丘を目指すことになる。あのときも、鳴海は言葉が少なかった。もっとも、彼女が雄弁に何かをしゃべっている姿など見たことがなかったが。
 ここは市街地だったのだろうか。小道はときどき不自然な段差を上り下りする。それは斜面の住宅地にあるひな壇のような地形、家々の土台部分のなごりを思わせた。草にまぎれてコンクリートの柱が墓標のようにつづくが、これはおそらく電柱だったに違いない。架空線は途切れ、朽ちることもなくただ立ち尽くすだけの電柱は、まさに墓標を思わせた。この斜面に残る街はいま、完全に死んでいた。死に、新たな住人たちが静かに暮らしていた。そこを、三人は歩く。
「まだ、行くんですか」
「もうすぐ。もうすぐよ」
 老婦人の声に感情が感じられなかった。
 怜は右手に広がる市街地を向きながら歩く。平淡だった札幌の市街地は、海水の侵入を簡単に許してしまった。かつて、有史以前、市街地の広がる平野は浅い湿地帯だったというが、それがもとに戻りつつあるのだ。ここから見ても海岸線は予想以上に近い。
 道が急な登りになった。草に埋もれて階段が刻まれていた。怜がもう少し足元に気を配っていたら、階段が始まった場所の両脇に、石でできた門柱を見ることができただろう。そこに刻まれたレリーフはもはや読みとることができなかったかもしれないが。
作品名:夏の扉 作家名:能勢恭介