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夏の扉

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 少女は応えない。しかし沈黙が回答だ。少女は否定しなかった。それだけで十分だ。
「僕にもくれないかな。もしよかったら」
「誰かにあげるの?」
「部屋に飾るよ」
「綾瀬さんにあげるんじゃないの?」
 少女の言葉に怜は絶句した。温室へはひとりで来たことしかない。そもそもここに来るのは二回目だ。少女に会ったのも二回目だ。それなのになぜそんなことを言う? 理由は想像できる。自分が何年かぶりだという外来であること。だからここでは、それだけで街の中で放射能防護服を着ているよりも目立つ。それに、あの春の嵐の日、外へ飛び出した鳴海を自分が追って、土砂降りのアスファルトに転がったことはきっとここの誰もが知っている。知ろうとしなくても知れてしまうということは、真琴がその饒舌ぶりを発揮しなくともありえることだ。
「綾瀬さんのことが好きなんじゃないの? 白石さん」
 感情をまったく読みとることもできず、怜は少女の視線を正面で受けていた。
「さあ、……どうだろう」
 中腰から立ち上がった。暑いからだろうか、視界が一瞬白くなる。軽い眩暈だ。
「いいわ」
「え?」
「お花。欲しいのなら、あげるわ」
 少女はそう言うが早いか、バスケットを持ったまますたすたと歩き出した。
「こっちよ」
 バスケットを持ったまま、エアロックの向こうへ。怜は少女のあとをついて、もと来た通路を折り返す。
 扉は少女が軽く押すと簡単に向こう側へ開く。トマトの部屋の気圧がさらに花の部屋よりも高いからだ。探せばこの部屋のどこかに、明日香が喜ぶかもしれない高精度な気圧計が設置してあるに違いない。
「早く扉を閉めて」
 つと振り返り、少女の目が厳しい。怜はだまってそれに従う。
 それにしても、これだけの花や樹、野菜や果物がところせましと繁るこの温室が、無愛想な外観の<施設>の屋上に建っているとは、不思議な気分がした。大きな病院にアトリウムがあるのはめずらしくはない。そこに集う入院者たちの憩いの場所になるのもうなずける。けれど、ここ、<施設>の温室は違う。入所者たちは誰もここに集わない。みんな無視している。花や樹木はよく手入れされていて、通路や外壁にくもりひとつもなく、よく整備されているのは一目瞭然だ。なのに、誰も来ない。
 名前もわからない青い花が肩口をかすめる。むせかえるほどの芳香は意外に不快に感じない。怜は繁みの向こうへと見え隠れする少女の背中を追い続ける。まるで迷路だ。歩き続け、温室の広さを知る。ここの植物がみな水耕栽培だとすると、システムから水そのものの自重、おそらくは強化樹脂製と思しき天蓋など、すべての荷重は相当なものになるはずだ。そもそもこれだけの植物を栽培する水は、いったいどこから汲み出しているのだろうか。怜はここへ通うときにいつも目印にしているポンプ場を思い出す。住人が消え、荒地に戻ってしまったこの街に、水をくみ上げる揚水機もポンプも必要ない。けれど怜が通りかかるとき、いつもポンプ場からは、揚水機が作動する低いうなりが聞こえていた。
 ここの水か。
 そう考えると、ますます<施設>と温室の関係がわからなくなる。これほどの規模を持ちながら、入所者たちから無視されつづけているこの不思議な場所のことが。
 前を行く少女は歩きつづけている。立ち止まることもなく、温室の中をぐるぐると歩く。怜は呼びかけることもなく、ただついていく。少女のバスケットに次々と繁みに咲く花が摘まれていくのに気づいたのは、額に浮いた汗を三度目にぬぐったときだった。歩きながら、少女は器用に花を摘みつづけていたらしい。
 いくつかの角を曲がり、見え隠れしていた少女の背中が忽然と消えた。怜はそれでも亜とを追うことはせず、そっと少女が消えた角を曲がった。
 この部屋の通路の配置は、ぐるりと繁みの外側を一周し、その環状線から中心部へ、いくつもの放射通路が交差するというものらしい。部屋から部屋へと通ずるのはさしずめ主通路、というより外郭環状道路のようなもので、少女と怜が踏み込んだのは、外環状から伸びるスポークからハブへ向かう放射通路と、何本かの内環状らしい。背丈ほどもある草木が水上に屹立する温室の中で、怜はしばし方向感覚を失っていた。自分が今、環状線に立っているのか、放射通路に立っているのかもわからない。だから少女が消えた曲がり角が、ハブへ向かっているのかリムへ向かっているのかもわからなかった。ただ、目の前にぽっかりと広がった空間に、突然の広がりを見せた空間に、一瞬の眩暈を感じていた。
 そこは花畑だった。
 まるで水耕栽培とは思えない。水耕栽培独特の配管も見当たらなければ、列をなす畝があるのかもわからない。花は勝手気ままな場所に、自分の意思で見つけた場所に、ただ咲いていた。
 ヒナゲシ、モーブ、ヘリオトロープ、プリムローズ。気の狂った画家がパレットに溶いた絵の具をでたらめにキャンバスにぶちまけたならこんな色になるだろう。統一性もなにも見当たらない、ただ気に入った花だけをそこに植え、咲かせているような場所だった。
 羽虫たちの羽音も聞こえない。風の音も聞こえない。見上げても太陽は透明な天蓋に邪魔されて見えない。怜は花畑の中心に歩み寄ることもできず、立ち尽くしていた。
「白石さん」
 呼びかけられ、振り向いた。少女だと思っていた。バスケットを抱え、冷徹なレンズ眼を向けて、突っ立っているのだと思った。
「鳴海さん」
 後ろにたっていたのは鳴海だった。右手に花束を抱えて。
「あの子が、くれたの」
 鳴海も目もまた、あの少女と同じだった。レンズのような、ガラス球のような、悲しい目をしていた。
「女の子は」
「降りていったわ。自分の部屋に」
「そうか。これ以上僕の相手はできないってことか」
「この花と、そう、トマトをくれたわ。白石さんにって」
 鳴海は左手にトマトを一個、持っていた。差しだした手は花畑ではいつもよりずっと白く、色彩が欠落して見えた。なにも色の塗られていないキャンバスそのものに見えた。だから、鳴海の手のひらのトマトは、画用紙に一滴たらした、パレットから溶いたばかりの絵の具のようだった。
「トマト?」
「白石さんの好物だって」
 怜は鳴海からトマトを受け取った。赤く、熟れすぎない程度に熟れていた。
 空調が作動したらしい、腹に響くようなサーモスタットの稼動音がふたりを包み込む。それは憂鬱な耳鳴りのようでもあったし、寝不足の翌日に感ずる偏頭痛のようでもあった。
「嫌いじゃないけどね」
 手のひらにトマトをのせて、そっと握った。つぶれないように、トマトの感触を確かめるように。
「きれいだ」
 鳴海の右手の花束は、すべてがコスモスだった。秋の花だ。少女が歩きながら摘んでいた花は、鳴海の花束ではなかったのだろうか。少女はコスモスなど一輪も摘んでいなかった。
「それ、持っていこう。有田さんに」
「これを?」
「お見舞いさ、花束くらい持っていかないと、格好がつかないよ。あいにく、僕は街で花を売っている店なんて知らないんだ」
 夏の扉はまだ開いている。なのに、少女はコスモスを摘んだ。ひょっとすると、鳴海が右手に抱えている花束が、秋の扉を開く鍵のひとつなのかもしれないと、怜は思った。
作品名:夏の扉 作家名:能勢恭介