夏の扉
この風景を、自分はいつ頃まで覚えていようとするのだろう。
鳴海には、ここで待つと伝えてしまった。カウンセリングに要する時間は、外来も入院も関係なく、一時間だ。一時間後にここへ戻ってくればいい。怜は長椅子から立ち上がり、頭上にさざめく芝生の波のきらめきを感じながら、受付前を通過し、二階へ上がる階段に右足をのせた。
一段一段上がっていく怜の足取りはしかし、けっして軽くはない。未踏の山に足を踏み入れ、一歩先、二歩先を見極めながら進むように。いまは<施設>の二階がずいぶんと遠く感じられていた。明日香や真琴たちに会うことすら、怜には少々億劫な気分だった。だから怜は、二階の談話室に誰もいないことを確認し、そのまま屋上へ上がる階段室の扉を開いた。
あの耐爆ドアのような扉を開けると、停滞していたらしい階段室の空気が外側へ向かって吹き出した。霧の晴れた空がすぐ頭の上に広がっていて、見渡す屋上は照り返しが熱い。三六〇度、霧のなごりすら残さない夏の風景がどこまでも続いていて、遠くに望む新市街の窓がきらめいていた。
屋上には誰の気配もなかった。けれどここの住人たちは気配を消す名人だ。温室にはあの子どもたちがいるのかもしれない。プロペラが風を切る音がやけに大きい。怜は温室の扉を開き、中へ入った。
気温はさほど外気と変わらないのかもしれない。むしろ照り返しがない分、過ごしやすい。けれど湿度が高い。そして立ち込める濃厚な甘い匂い。温室の中は気圧がそれだけで倍になったような気がする。季節感のまったくない、あふれ滴る緑の空間だった。二度目の温室は、怜にとってあまり居心地がよくなかった。<施設>の屋上から見える風景と、ここの住人たち、何もかもをあきらめた雰囲気だけが漂う<施設>において、温室だけが異様だった。すべてに背を向けているはずなのに、この温室は向けるところを見失った希望だけがあふれているように感じたからだ。
怜はしゃがみこんだ。そこは地表ではないのに、ひんやりとした空気がかすかに流れていて、触ることのできない透明で液状化した土の存在を、怜は霞みがかかった温室の中で感じていた。
温室の中にいると、風力発電のプロペラの音は聞こえない。この温室は気密性が異常なほどに高い。エアロックを思わせるあの入り口は、案外本当にエアロックなのかもしれない。扉を開けたとき、なかなか強烈な圧で空気が流れ出ていくのは、温室の内部の気圧を上げているからに違いない。それは<機構>が管轄している防疫施設のシステムと同じだ。水と同じで、空気は気圧の高いところから低いところへ流れていく。常に室内の気圧が高ければ、外気は流入してこない。
<施設>の人間はめったにこの温室を訪れないという。世話をしているのは子どもたちだけで、明日香ははっきりとここを毛嫌いしている。鳴海ですら、ここに上がってこようとはしないのだ。それは、この温室がすでに<施設>の人間を<施設>の屋上にありながら拒絶しているからだ。よりどころのない希望があふれ、それが物理的に高められた気圧で濃密な瘴気になり、<施設>の人々の気を奪っていくのかもしれない。
怜はサーモスタットのかすかなうなりを耳にしながら立ち上がり、そして歩む。通路の両側から肩に触れるほど、色とりどりの花が咲いていた。さらにエアロックを抜け、ふたつめの部屋へ。あの赤いトマトが実っていた部屋へ。空気が冷たい。
きょうもトマトは実っていた。赤く、たわわに。
「誰?」
部屋の奥に小柄な人影が揺れた。
「……やあ」
子どもたちだ。その声にも顔にも怜は見覚えがなかった。けれど、誰何する瞳の色には覚えがある。あの子だ。また会った。
「きょうは、彼はいないのかい?」
少女は、その小さな身体にはあまりに大きすぎのバスケットを抱えていた。トマト、キャベツ、トマト、トマト、トマト。
「きょうのお昼に使うのかい?」
少女はうなずかない。否定もしない。
「食べる?」
「いや、遠慮しておくよ」
この子は、こんなに背が小さかっただろうか。
「ここが好きなの?」
少女が訊いた。口調は真琴よりずっと大人びている。けれど声音が悲しいくらいに幼い。
「さあ。わからない。好きなのかもね。君は、どうなんだい?」
「これは、わたしの仕事だから」
「仕事?」
「仕事」
「そうか、仕事か」
<施設>で「仕事」などという言葉を聞くとは思わなかった。
「わたしがトマトを作らなかったら、誰が作るの?」
少女はまっすぐに怜を見つめ、そして、ふっと視線をバスケットのトマトへ落とす。
「……誰かがやるさ」
怜はわざと挑発的な物言いをしてみた。彼女はどう反応するだろう。
「……誰もやらないわ。わたしがやらなきゃ、ここの誰も」
「君がこの温室の植物全部の面倒を見ているわけじゃないんだろう?」
少女は細い首の上にのった小さな頭を、二度三度横に振った。
「なんであんな大きな風車が回っているのか、ここに来なければわからないだろうね。ここの温度は何度だい?」
「二七度」
「外気温が何度かわかるかい?」
「三四度」
「暑いね」
少女はトマトを抱えたままでうなずいた。
「これだけの部屋を冷やそうとしたら、太陽光発電と風力発電を併用しなくちゃならないんだ。二四時間、一定の温度に保っておくなんてね」
「一定じゃないわ」
「そうかい?」
「夜は温度を下げるの。そうしないと、誰も眠らない」
「誰も?」
怜が訊くと、少女はくるりと室内に首をめぐらせた。そうか、この植物たちか。
「眠くなったら、眠るだろうさ。そうは思わないのかい?」
怜の言葉を、少女は理解ができないという風に、ゆっくりと首をふって否定した。
「そうか」
怜は目の前の少女が不意に、明日香のショートヘアにダブって見えた。そうだ、目の前の少女は、明日香にそっくりだ。安易な想像が生み出した安易な相似かと怜は誰にたいしてでもなく首をふった。それをめずらしい植物でも発見したかのように見上げる少女の瞳は、おそろしく澄んでいた。白と黒がくっきりと分かれた、レンズのような冷徹な瞳だ。
「君はここが好きなのかい?」
「ここ、ここって?」
怜ははっとした。少女は頭がいい。ものごとを覚えるのが早いとかいう、そういう頭のよさではないような気がした。少女の頭は、年齢のわりに回転が異常に早いに違いない。怜は(温室が好きなのか)、そのつもりで訊いた。けれどきっと少女はこう受け取ったのだ。
(この施設が好きなのか?)
どっちにも取れる質問をした自分が悪いのかもしれない。「ここ」の範囲は案外広い。
「温室さ。この」
怜は中腰になり、少女に視線の高さを合わせた。
「きょうはあの男の子はいないんだね」
低く、つぶやくように言ってみた。けれど少女は応じなかった。バスケットを抱えたままで、まっすぐに怜の瞳を見つめるだけだ。
「そうだ。君にお願いがあるんだ」
そのレンズ眼に怜は呼びかけた。
「なに?」
バスケットは重くないのだろうか。怜はそう思ったが、持ってやろうという気分にはならなかった。
「花が欲しい。君たちだろう、稲村先生のデスクにいつも花を飾っているのは」



