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夏の扉

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 明日香や真琴がいつカウンセリングを受けているのか、詳しい日時はまったく知らない。興味もないからだ。それはたがいがそうであって、なにも自分が特別他人に無関心というわけではない。ここではみんながそうなのだ。しかし鳴海は、彼が何曜日にここに来て、あの長椅子で煙草をふかすのかを、知っていた。『知っていた』というのは正確ではないかもしれない。憶えてしまった、そう言いかえればいいだろう。彼のカウンセリングの次が自分なのだ。
 あの春の日、怜がはじめて<施設>に姿を見せたとき、つい声をかけてしまったこと。いつか、中庭で怜と対面したときのこと。あのときの鳴海は、妙に気分が高揚していた。まるでステップを踏むように芝生を歩いた。真琴はときどき一階に下りてくるが、明日香はカウンセリング以外で階段を下りることは、まず絶対になかった。けれど鳴海はこの中庭が好きだった。案外、という但し書きがついてしまうが、天井のない空間に身を投げ出すことができるのは、<施設>の中でここだけだった。どうしようもないくらいに自分を壁の中へ押しやってしまったとき、<施設>の白い壁と冷たいリノリウム張りの床はときどきつらすぎるのだ。壁も天井もない場所へ出てみたい。ただし、外とつながっていない場所で。その望みをかなえてくれるのが<施設>の中庭だった。
 中庭でステップを踏んでいたとき、待合室に彼がいた。彼はふらふらと芝生に足をおろした。そう、鳴海には、怜がふらりと揺れながら中庭に出てきたように見えた。鳴海は会釈をした。彼も返した。鳴海はまたステップを踏んだが、怜は固まってしまったかのようにその場から動かなかった。そのうち稲村が鳴海を呼んだ。医師の声に驚いたのか、怜は身体をびくりとさせた。そんな怜の顔を見て、鳴海は笑った。自然に笑えた。あのときの自分が不思議で仕方ない。
 怜は長椅子に背をあずけたままで動かない。少し傾いた頭は、まるで日を浴びてうたた寝をしているようにも見えた。今朝から立ち込めていた濃い霧はいま、ようやく晴れつつあった。レースカーテンを透したような淡い陽で、案外うたた寝にはぴったりなのではないかと、鳴海は待合室とエントランスの境界線に立ち、思っていた。怜は鳴海の接近にまだまったく気づく様子がなかった。
 稲村とのカウンセリングまではまだ少し時間的余裕があるはずだった。万事が時刻にルーズ、というよりも時間の流れそのものが個々人でまったく異なっているこの<施設>にあって、医師たちとのカウンセリングの開始時刻と食事の時刻はほぼぴったりと決まっていた。だから入所者たちは、自分のカウンセリングの日、時計を見る回数が一回だけ普段より多くなる。
 鳴海は並ぶ長椅子の最前列へ歩む。怜が座っている場所だ。淡い日を浴びた怜の横顔は、まさに昼寝をしている子どものそれだった。人は眠っているとき、こうも無防備になる。人だけではない、おそらくは動物はみんな。
 そっと怜の隣に腰をおろした。ぎしりと長椅子がふたり分の重さにあえぐ。その音で怜は目を覚ましたようだった。本当に眠っていたらしい。
「やあ」
 最初に声を出したのは怜だった。鳴海は正面を、中庭を向いていた。
「こんにちは」
 抑揚もなく、鳴海は応える。
「いつから、ここに?」
 怜は顔を両手で一度こすり、二度ほど頭を左右にふった。まだ眠気が残っているらしい。
「つい、いま」
「そう。気がつかなかった。眠ってしまった」
 待合室が変に静かだと思ったが、受付のカウンターに女の子の姿が見えなかった。昼食だろうか。それにしては早いか。
「煙草、喫わないんですか」
 鳴海は言ってみた。すると怜は目を三度、四度と瞬かせて、灰皿を指さした。
「ここでは僕以外に煙草を喫う人間がいないんだよね? だったらほら、これは喫いすぎだ」
 吸殻は三本。それが多いのか少ないのか、鳴海には判断できなかった。
「ついさっきも一本喫ったばかりだ。それなのに眠ってしまうなんてね」
 まるで煙草に覚醒作用があるかのごとく怜は笑ったが、鳴海は笑わなかった。
「霧が、晴れたみたいだ」
 怜のセリフはひとりごとのような響きがあった。誰にたいして言ったわけでもなく、強いてあげるとするならば、晴れてしまった霧にたいしてか。
「今朝はすごい霧だった。鳴海さん、起きてましたか?」
 怜はこうしてときどき敬語が混じる。
「起きてました」
 彼に倣う。
「あんな霧、ここしばらくお目にかかったことがない。電車で来ればよかった。ちょっとね、来る途中で後悔したよ」
「電車で来たんじゃないんですか」
「車だよ。ちょっとね」
 怜も鳴海も正面を向いたまま。中庭に向かって、ふたりそれぞれがひとりごとを吐いているようだ。
「これから、診察だね」
 前を向いたままの怜が鳴海に言う。霧のカーテンを強引に引いているのは誰か。鳴海は窓の外を向き、ぼんやりとそんなことを考えていた。
「白石さんは、終わったんですね」
「終わったよ」
 ふたりが重心を変えるたびに、長椅子がきしむ。その音だけが待合室に響く。
「カーテンが」
 鳴海の口をついて出た言葉は、勝手に彼女の感情から飛び出したセリフだった。
「カーテン?」
「いえ、霧がどんどん晴れていくのを見ていたら、まるでカーテンみたいだと思ったから」
 並んで座っているとはいえ、二人の距離はあんがい離れている。たとえば、怜の肩幅ひとつ分くらい。
「カーテン、んん、だったらそれはきっとレースのカーテンだな。暗いところから明るいところは見えるけど、その逆は見えない」
 あたりまえのことを、鳴海は思ったが、次の瞬間には彼の言葉にもうひとつの意味を見出していた。
「ここは、暗いですか」
 だから、訊いてみた。
「そんなことは言っていないよ。そうだね、今朝の霧がさ、本当にレースのカーテンだとしたら」
 怜はそこでいったん言葉を切った。
「レースのカーテンだとしたら?」
 鳴海が受けた。
「僕はその向こうが何も見えなかった。のぞくこともできなかった。今はこうしてさ、霧が晴れていくけど、今朝は何も見えなかった。見えなかったってことは、僕は部屋の外にいたってことだよね。レースのカーテンが引かれた部屋の外で、見えない窓の向こうをのぞこうとしていたったわけだ。僕がいたのは、外なのかな、内なのかな」
 怜はシートに深く背をあずけて、さもけだるそうに、つぶやくような口調でそう言った。
「ねえ、鳴海さん。どっちだと思う?」
 胸のポケットから煙草の箱を取り出した。喫いすぎだと言っておきながら、怜は箱から一本抜き出して、くわえた。
「君は、今朝の霧をカーテンみたいだと言った。僕もその通りだと思った。だったら、僕や君は、どっち側に住んでいるんだろう」
 怜は煙草をくわえたまま、なかなか火をつけない。ちらりと見ると、ライターを取り出してもいなかった。
「わたしは」
 怜はようやくオイルライターを取り出した。
「きっと、部屋の中で明かりを点けていたんだと思う。夜中に」
「どうしてそう思うんだい?」
 鋭い音をたてて怜はライターを点火した。
「きっと、この<施設>が、その……部屋だと思うから」
 怜は深く煙を吸い込み、そしてゆっくりと吐き出した。
作品名:夏の扉 作家名:能勢恭介