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夏の扉

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 今朝、怜が電車ではなく車で<施設>を訪れたことには理由があった。
 きょうは、カウンセリングを終えてもまっすぐ<団地>へ帰るつもりはなかった。ゆうべ<ターミナル>を起動させ、<機構>が管轄している医療施設のここ一ヶ月の新規入所者リストを調べたのは、ある人物がいったいどこの施設に収容されているのかを知りたかったからだ。そして怜が今朝、イグニッション・キーをポケットに突っこんで部屋を出てきたのは、その人物に会うためだ。
 鳴海を連れて。
 彼女には何も言っていなかったし、もちろん稲村にもなにも相談していなかった。怜はあの老婦人を訪ねるつもりだった。
 稲村が言うまでもなく、老婦人の移送先はあっけなく見つかった。なにより<機構>の保健局管理しているリストに、彼女と病院の名前があった。事故などで死亡した人間が身元不明の場合、<機構>が発行する公報にその詳細が載せられて一般に公開されるが、それに近いのが保健局発行のリストだった。身元不明、または後見人なしの患者が<機構>管轄の病院に入院した場合、または移送された場合、必ずそのリストに掲載される。リストによれば、彼女は市内の医療施設に収容されていた。怜が通った<施設>は<機構>の直轄ではなかったが、老婦人は設備のととのった<機構>直轄の病院にいた。大規模な施設ではなく、比較的小規模と思われる、おそらくそれまで彼女が住んでいた<施設>によく似た、郊外の病院に。
 鳴海を連れて行きたかった。三人で話をしたかった。鳴海は老婦人の『終わり』を『見て』しまうのだろうか。見えるのだったら、その風景を聞きたかった。彼女らは、いったいどんな風景を抱き、この世界で過ごしているのか、それを知りたかった。彼女たちが抱える世界の中で、どんな風景を想起しているのかを。
 スロットル・ペダルを踏み込んだ。軽く砂を蹴立ててスタート。まばらに灯ったままのナトリウムランプが霧ににじみ、なんだか泣きたくなるような寂しい朝だった。やがて軌道の終点が見えてくる。その角を曲がると、霧の中に黒く並んだ防風林がつづく。もう怜の車の排気音は、<施設>まで届いているにちがいない。インストゥルメント・パネルの時計はもう午前九時を過ぎている。<施設>の入所者たちはもうみなベッドから出て、自室で、またはあの二階の談話室で朝食をとりおえたころだろう。風車は霧の向こうで影絵のようで、プロペラは止まっていた。プロペラを回すほどの風が、今朝はない。怜はエントランスの前に車を寄せ、そしてエンジンを止めた。あの日、鳴海を迎えに来たときのように。車を降りてエントランスの扉の奥がやけに暗く、いまがいったい何時なのか、怜は腕時計を見た。

 待合室は静まり返っていて、空調も止まっていた。中庭に通ずる掃き出し窓も閉まっていて、ただ受付の女の子がキーを叩く音が響いていた。
「おはようございます」
 怜ははじめてここに来たときを思い出し、わざと不安げな顔をつくってみた。鏡を見たなら、自分はどんな顔をしているのだろう。あの春の日、はじめてここに来たときのような顔はしていないにちがいない。それだけはわかった。
「おはようございます。白石怜さん」
 受付の女の子は、いつも怜を初診の人間のように扱う。笑顔は自然だが、親しみはわかなかった。
「そこにかけてお待ちください」
 その言葉も初診の際とまったく同じだった。怜はベンチシートの灰皿の前に腰かけた。
 ポケットから煙草を取り出す。そして、躊躇するふりをした。
(喫わないんですか)
 怜は火を点けた。聞こえるはずのない声が聞こえるはずがない。振り向いても鳴海はいなかった。
 深く煙草を喫った。きょう一本目の煙草だった。いつもより辛い。風邪でも引いたのか。ただの気のせいだろうか。
 受付の女の子はなかなか怜を呼ばなかった。廊下の角を曲がった先にある稲村の部屋からも、怜を呼ぶ声は聞こえなかった。<施設>の中に、自分と受付の女の子のたったふたりが取り残されているのではないかと、そう思った。静かだったのだ。
 たっぷり時間をかけて煙草を一本灰にした。薄暗い待合室から中庭を眺め、まだ霧が濃く淀んでいることを確認する。まだ夏は続くはずなのに、怜はかすかな秋の匂いを感じていた。自分が<夏が終わること>を望んでいるから感じたのかもしれないが、どこか懐かしいような、そして寂しいあの匂いを、怜は鼻腔の奥で感じていたのだった。
 やがて受付の女の子が怜の名を呼び、廊下の角を曲がった先で待つ稲村との一時間の対話を済ませ、ふたたび待合室のベンチシートで煙草を喫った。霧はもううっすらと晴れてきていたが、それでも太陽がどこにあるのかはわからなかった。煙草を指にはさんだまま、怜は待合室の窓を開けた。室内から吹き出ていく空気の中に、自分の匂いをかいだ。一歩芝生に足をおろし、潮のにおいが強い風を全身に浴びた。霧のひとつひとつの粒子が頬を触っていく。繭に包まれたような太陽を探し、怜はふと、終わったんだなと息をついた。診察はあと一回残っているが、怜の日常はすでに、ここへ来る以前の流れへとシフトしていた。ぽつんと日常の中に生まれたもうひとつの日常は、この濃い霧の向こうへと消えていくような気がした。けれど怜は、<施設>を軸にした時間の流れが霧にまかれて消え去る前に、鳴海をここから連れ出さなければならなかった。怜の知る日常へ、彼女をいまいちど連れ出さなければならない。
 怜は鳴海を待った。きっと彼女は降りてくる。気づけば煙草はフィルターまで灰になっていた。芝生に灰を散らさないよう、そっと灰皿で煙草の頭をつぶした。
 受付から聞こえるキータッチの音が、時折途切れるようになった。夕立が去ったあとの雨どいの音だ。奇妙なポリリズムだった。怜はそっと、窓を閉めた。すると、それまで聞こえていなかった音楽が耳に届く。オルガンだ。稚拙な旋律は、怜を春のあの日まで引き戻す。初めてここへ来たときも、オルガンが聞こえていた。不思議な既視感だ。
 結局、自分は最後まで外来患者だった。鳴海や明日香や真琴、そして老婦人、あるいは稲村たちここの入所者たちのいったいどこがおかしいのか、どこが悪いのか、なぜ<施設>に入所しているのか、怜には最後までわからなかった。街とここを行き来する自分が見ても、彼女たちがとりたてて<狂っている>とは思えなかったのだ。老婦人が言うようにおたがいがおたがいを映す鏡なのだとしたら、それぞれの向かい合った姿が見えたはずだ。鏡に映った自分の姿が。
 見えたのだろうか。
 それすらわからない。ここに通った数ヶ月間は、いったいどんな意味を持つというのだろうか。
 怜は待っていた。
 煙草を喫おうかとも思ったが、やめた。苦く辛いだけだ。待とう。
 霧はまだ流れていた。

 鳴海が階段を一階へ下りたとき、待合室の長椅子に彼の姿があった。うっすらと煙の余韻があったから、彼がどのくらい前に煙草を喫っていたのか、想像がついた。彼は、待っている。
 わたしを。
 直感的にそう思った。彼はわたしのことを待っている。
作品名:夏の扉 作家名:能勢恭介