夏の扉
「どうして、わたしが<施設>にいるのか、明日香ちゃんは知ってるでしょう。そうよ、『終わり』が『見える』からよ。その終わりの風景ってね、わたしが今言ったとおりの、白い部屋なのよ。まるで<施設>の談話室でしょう。みんな手を振って、笑って、もう二度と会えないのに、楽しい思い出だけをわたしに投げつけてね、出て行くのよ。さよならって」
「それが、『終わり』なの?」
「ちょっと違うけど、そうよ。『終わりの風景』が見えるのよ。誰もいない部屋、誰もいない場所、ちょっと前まで、少し前まで、誰かがいた場所の、そういう風景なのよ。誰かが活けたきれいな花もね、わたしが気がついたときには枯れてるのよ。枯れて、きれいだった思い出だけが、残ってるのよ。わかる? 明日香ちゃん、絵に描いてあげようか? だからね、わたしは出て行かないわ。残される側なのよ、わたしは。出て行くのは、きっと明日香ちゃんだったり、白石さんだったり、そして……」
白髪、マグカップ、老婦人のイメージが、もう鳴海の白い部屋には残っていた。マグカップに三分の一ほど残った紅茶はすっかり冷え切って、おかしな色に成り果てていた。
「わたしは、ずっと、<施設>に残るわ」
抱きしめていた腕を緩めた明日香は、それでも鳴海の両腕からは手を放さなかった。真正面に明日香の双眸がじっと鳴身を射る。長いまつげと、水銀灯を閉じ込めた瞳。
「部屋に戻りましょう」
すっと身を引いて、明日香の腕を払う。
「絵を描いてあげるわ」
「白い部屋の?」
明日香は鳴海に払われた腕を頼りなく空中に漂わせていたが、次にはもう、スウェットのポケットに両手を突っこんでいた。
「違うわ。いつかの続き。明日香ちゃんのポートレイト、描いてあげるわ。目がさえて眠れないんでしょう。こんどは、色をつけてあげる」
「……本当?」
苦笑まじりに明日香は訊きかえした。
「明日香ちゃんが描いて欲しいんなら」
「……お願い」
気がつくと、鳴海も明日香も、月の光の中に立っていた。いつのまにか雲が晴れ、星座もわからないほどの明るい夜空がふたりの頭の上にあった。
まぶしい。
鳴海は少し端の欠けた月を見上げ、本当にそう思った。
五〇、透過光
ひどく濃い霧の中を走っていた。
今朝はずいぶんと涼しかった。ときおり思い出したようにこの街は前世紀の季節をとりもどす。霧は海に近づけば近づくほど濃くなっていくようだった。いつも電車の中から眺めている港湾道路が、まったく普段の姿とは違って見える。霧の中にぼんやりと灯る街路灯はオレンジ色で、それはナトリウムランプの色なのだけれど、滲んだように光るランプは、画用紙にぽつりと落とした絵の具にも似ているかもしれない。きっと彼女ならそう思うにちがいない。
ハイビームで行き先を探りながら、市街地を離れた。ここから道路の両側は、捨てられた草地が果てなく広がる。地平に並んでいるはずの送電塔が見えない。等間隔で並ぶ街路灯と、ひびだらけのアスファルトと、電車の軌道と、かわりばえのしない風景はまだ続く。
怜はダッシュボードの時計に目をやる。午前八時、を少し回ったところ。霧はまだ濃い。目覚めたとき、窓の向こうに十七号棟が見えなかった。雲の中に住んでいるような、不思議で不安な目覚めだった。知っている世界がみな、濃霧の中に呑まれて消滅してしまったのではないかと、怜は半ば本気で不安になったのだ。そんな気分も煙草を一本灰にしてしまうと失せてしまったが、季節外れの意外な霧は、できすぎた舞台演出のようで居心地が悪かった。
十六号棟を出て、怜は<団地>をあとにした。地下鉄駅の前の地球ゴマが午前七時の時報を鳴らしたとき、駅前には怜ひとりだった。そのまま改札を横目に坂を下り、旧市街に入る。豊平川を渡っても霧は濃く、ポケットに握ったイグニッション・キーの冷たさを感じながら、怜は歩いた。誰ともすれ違わず、ただ自動小銃を肩から下げた武装警官がひとり、じっと怜を目で追ってきただけだった。詰問されればIDを見せればいい。そうすれば、彼は怜に何も言わない。<機構>のIDナンバーは構成員全員に固有で、たとえば警官が怜に身分を問うたとしても、怜が自身のナンバーを口頭で伝えれば、警官は彼の<ターミナル>を操作して目の前の男の身元を割り出すことができる。怜は三日前、<機構>から復職を通知されていた。いや、実はもっと以前から通知だけは届いていたのかもしれない。<ターミナル>の電源を入れたとき、すでに怜のメールボックスには、<機構>からメッセージが一通、それも無味乾燥な文面で届いていた。
復職が決まった。
もとの日常が戻ってくる。怜は車のエンジンに火を入れ、しばらく暖機運転するあいだ、ステアリングにもたれるようにして、数ヶ月前までの自分を取り戻そうと、思い出そうと、じっと目を閉じていた。<ターミナル>を携帯しようかと部屋を出るときに少々迷ったが、けっきょく手ぶらで鍵をかけ、エレベータに乗った。きょうは銃も持ってこなかった。
<施設>へ向かう。
人通りもまして車の通りもほとんどない旧市街をぬけ、いつもの港湾道路に入ると、LRTの電車を追い抜く。空気輸送中の電車はひどくゆったりとレールを進んでいて、それはいつも怜が乗る電車なのだけれど、霧の中を進む運転士だけが乗客の電車は、現実離れして見えてしかたがなかった。開けた窓から吹き込んでくる風は、いつにもまして湿気を含み、それだけでもう怜の髪は乱れはじめていた。しかも、たっぷりと潮を含んでいる。海が近い。
はたしていま、いったいどのあたりに太陽が昇っているのか、怜はひとまず路肩に車を寄せ、一本煙草を灰にしながら探っていた。エンジンを止めると、鳥のさえずりがあちこちの繁みから聞こえる。電車が来ない港湾道路は空気が転がっていく音がいくつも重なり、意外と騒々しい。人が住んでいないというだけで、人が捨てたというだけで、まだこのあたりの土も草も枯れかかった木も、みんな生きていた。
<施設>までは、もうすぐ。あと電停を二つ数えれば、そこが終点だ。防風林と、ポンプ場、やがて見えてくるのは風力発電の風車を二基屋上に載せた、<施設>の白い壁だ。だが、これほどの濃い霧の中で、あの白い壁が港湾道路からも見えるかどうか、怜は自信がなかった。
窓を開け放った車内で、深くシートに背中をあずけ、怜は苦笑していた。
これは、カウント・ダウンなのだ。あと、二回。それもきょうの訪問を含めてだ。あと二回、ここを訪れたあとはもう二度と、<施設>を訪ねることはないだろう。それは自信を持って言えた。来る理由がまるでなくなるからだ。もしここを訪れることがあるとすれば、鳴海や明日香、稲村たち<施設>の住人たちがすべて立ち去ったあとの、海に沈むに任せるようになったときだ。そのときもまだ、あの風車は回り続けているのだろうか。屋上の温室で、子どもたちが消えたあとも、あの果物や野菜や草花は、育ち続けるのだろうか。
ひたひたと海水に浸る待合室の情景が、ひどくリアルに浮かび上がり、そしてその風景があまりに自然な姿に思えて、怜は目をゆっくりと閉じた。
行こうか。
エンジン、スタート。



