夏の扉
明日香は駆け出すようにして<施設>を出た。鳴海は彼女を追って数歩、靴の下の砂を踏みしめた。それにしても、夜だというのに明るい。
「はやく、おいでよ」
道路まで出て、明日香が手をふっていた。虫の声が聞こえる。周囲から、足元から、たくさん聞こえる。そして、空には月の光を受けて雲が輝いていた。
「暑いね」
明日香が笑っていた。
ようやく鳴海は明日香に並んで立つ。首筋にうっすらと汗が浮かびはじめていた。
「いま、何度くらいあると思う?」
明日香が訊いた。
「さあ、わかんない」
「三十度はないかな、湿度は七十パーセントってところかな」
「そうなの?」
「適当よ、適当。どこか行きたいところある? 海まで行ってみる?」
「海?」
「そう。港湾道路まで出れば、すぐだよ、すぐ。きっとね」
「遠いわ」
「近いわ」
言うと明日香は両腕を空に突き上げて、大きく伸びをした。
「目がさえちゃって、眠れないよ」
少年のようなショート・ヘア。通った鼻梁、人を食ったような眼。けれど、いつもの明日香とは違う。あの、いつかポートレイトを描いてほしいと、鳴海の部屋でじっと座っていた明日香を思い出す。鳴海のスケッチブックに現れた明日香はあどけなかった。そして、憂いをたっぷり含んだ目をしていた。
「街まで行ってみる? 海よりは遠いよ」
虫の声ばかりが耳につき、市街地方向は街路灯が瞬くだけで、息遣いは届かない。
「街は、いいわ」
「あの環境調査員の部屋まで、行ってみようか?」
そう言ったときの明日香の目は、ひどく冷たい光を帯びていた。声音は変わっていないのに。
鳴海は答えず、ジグザグに足を進める明日香のあとをついていくだけだ。砂を蹴りながら、明日香は歩く。どこまで行くのだろう。どこまで歩くのだろう。どこへ行くのだろう。行き先がわからない。
不意に明日香は振り向いた。不敵な笑みを浮かべていた。わずかに顎を持ち上げて、かすかに目を細めて。そして月が雲に隠れ、明るかった夜が暗転し、明日香の表情が闇に融けた。瞳の中には水銀灯が灯っていた。それにしても、月のない夜というのは、こんなにも暗いものだったのだろうか。<施設>が建つうち捨てられた港湾地区は、いまや帰化植物と土に還りきらない廃棄物が散乱する明かりの乏しい場所で、電飾だらけの新市街と比べれば危険なくらいに夜の闇は濃い。今夜はだが月が明るい。だから、鳴海は明日香が外に出てみようと誘っても、闇に対する怖さを感じなかった。むしろ、鳴海にとっては、あの白い部屋のほうがよほど恐怖を感じる。
いま、月は雲の向こうに姿を潜めている。点々と灯る弱い水銀灯の明かりだけが、二人を照らしている。ひとつおき、ふたつおき、並ぶ街灯のすべてが灯っているわけではない。電力が安定的に供給されていないだけではない。故障した電灯がそのまま放置されているのだ。誰も修理しようと思わない。誰も、その明かりが故障しているということを知らない。
砂を踏みしめる音。一歩、二歩。音を耳で捉えて、鳴海はその場から動かない。明日香が歩み寄っているのだ。
三歩目は砂を蹴りつけるような、強い音だった。月はまだ雲に隠れたまま。
「明日香ちゃん……?」
鳴海はそのとき、闇が実体化して自分を抱きすくめにきたのかと、ほんの、ほんの一瞬ではあるがそう思った。
「鳴海さん」
明日香だ。
鳴海の身体を、明日香はしっかりと抱きしめていた。いや、抱きしめるというより、しがみつく、そんな感じで。
「いっしょに、わたしと、海、見に行こう」
明日香が耳元でささやいていた。彼女の体温が暑い。今は、真夏だ。
「海は、遠いわ」
鳴海は両腕をだらりと両脇にたらしていた。明日香が鳴海を抱く腕は痛いほどで、それが少し、怖かった。
「いっしょに、わたしと見に行こうよ」
「なぜ」
風は止まっていた。だから、<施設>屋上の風車も止まっていた。鳴海はなぜか場違いなことを考えていた。<施設>の光発電パネルは、はたして月の光程度の明かりでも、発電するものだろうかと。
「わたしも、海を見てみたいから」
「どうして」
この程度の明かりではだめだろう、仮に発電していたとしても、明日香が三十分もラジオを聴けば、すべてが帳消しになってしまうにちがいない。
「わたし、海を見たことがないわ。衛星写真でしか」
「だから、見に行きたいの?」
明日香は鳴海の肩の上で小さくうなずいたようだった。
「いっしょに、行こう」
「今?」
「今じゃなくていいわ、いつか、いっしょに」
暑い。熱い。風がない。月もない。水銀灯が、明日香のショートヘアの毛先の向こうに、ちらちらと瞬くのが見えていた。
「白石さんに、頼めば」
「いや」
明日香が首を振ると、彼女の頬が鳴海の頬に触れた。熱い。鳴海は、明日香が泣いているのではないかと思った。彼女の声は震えていた。真夏なのに、初冬のように。
「いっしょに行こうよ」
鳴海は応えない。
「わたしは、鳴海さんと、見に行きたい。あんな、環境調査員とは、行きたくないわ」
明日香のショートヘアの毛先の向こうに水銀灯、そしてその向こうに新市街の明かりが見える。<団地>だ。怜はもう眠っているのだろうか。
「いつか、わたし言ったよね。海をわたしの代わりに見に行ってほしいって。見に行って、それを絵に描いてほしいって。憶えてる?」
耳元でささやき続ける明日香の声は、まだかすれていた。
「憶えてるわ」
「あれ、嘘」
「……嘘?」
「そう、嘘。鳴海さんには、外に行って欲しくなかった。あんな環境調査員なんかと、外に行って欲しくなかった」
いつかの夜、鳴海のベッドの上で、じっとポートレイトのモデルになっていた明日香の言葉を、鳴海は実はほとんど忘れかけていた。外に出て、絵を描いて、それを明日香に見せるという、一方通行の約束を、鳴海はかすかな記憶としてとどめるだけで、効力を発揮する契約としては、まったく憶えていなかった。
「明日香ちゃん」
「いっしょに、海を見に行こう、鳴海さん。こんどは、わたしがガイドをしてあげるから。これでも自然科学は強いんだから。あんな環境調査員には、あなたは渡さないから」
鳴海を抱きしめる明日香の腕に、さらに力が入っていく。痛いくらいに。
「鳴海さんは、ずいぶん変わっちゃった」
「……」
「きっと、鳴海さん、ここを出て行くのね。<施設>を。いつか。わたしを置いて」
震える明日香の声。本当に泣いているのだろうか。彼女の汗ばんだ髪の匂いばかりがするだけで、表情がまるでわからないのだ。
「違うわ、明日香ちゃん。……置いていかれるのは、わたしよ。みんな、笑って、部屋を出て行くのよ。手を振って。そしてね、みんなの思い出だけ、残っちゃって、わたしは部屋にひとりきりなのよ。みんなのほうが、わたしを置きざりにして、出て行くのよ」
ささやき返すように、鳴海は言った。すると、抱きしめていた明日香の腕の緊張が、すっと解けた。触れ合っていた頬が離れる。



