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夏の扉

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 だから電話の前に立ったとき、すぐには受話器を取りあげなかった。そして鳴海はコインもカードもなにも持っていなかった。それに、わたしは誰につながろうとしているのだろう。
 わかってる。
 彼だ。
 ただ、彼と話をしてみたかっただけだ。
 彼もいなくなってしまうのか、あの部屋から出て行くのか、訊いてみたかっただけだ。彼もまた、鳴海を置きざりにしてあの白い部屋を出て行く日が来てしまうのだろうか、と。
 受話器を握った。フックから取りあげた。月の光を浴びて、鳴海は受話器を取りあげ、耳にあてた。わたしは電話のかけ方を知っている!
 けれど耳にあてた受話器からは、リングバック・トーンも空電音もなにも聞こえなかった。あたりまえだった。カードもコインも入れずに、いったいどうやって通話ができるというのだろうか。苦笑がもれそうだ。でも鳴海は月の光を浴びた彫像のように、眉ひとつ動かすことができなかった。受話器を握ったまま、立ち尽くしていた。せめて、通話中のコールでも、交換台からの警告でも、なんでもいいから聞きたかった。ここに自分がひとりでいることを、誰かに知ってもらいたかった。具体的に、誰に?
 受話器を握ったまま、鳴海は耳を澄ましていた。聞こえない音が聞こえればいいと思っていた。見えないものが見えるのだから、聞こえない音が聞こえてもいいだろう。だから、誰か、電話を取ってほしい。
 うつむき加減に、鳴海は電話機を見下ろしていた。あちこちが傷つき、塗装がはげていた。いつからここにおいてあるのか、鳴海は知らない。知っていたかもしれない老婦人はもうここにはいない。怜でなくてもいい、老婦人が電話の向こうから話しかけてくれれば、白い部屋の外から。白い部屋の向こうにも、鳴海が知らないだけで世界がちゃんと続いているのだと、大丈夫だよと教えてほしい。
 コインがほしい。ラインはつながっている。受話器から電話機本体へ、電話機から伸びるケーブルは壁の中へ。その向こうはわからない。続いてるのだと信じたかった。そこで、気がついた。
 ここは、あの白い部屋と同じだ。
 みんなここから出て行ってしまう。出て行ったあと、わたしはここに残される。ひどく居心地のいいこの建物の中に。
「鳴海さん」
 呼ぶ声に振り向いた。左耳にあてた受話器から聞こえたのではない。声は右耳から聞こえた。振り向くと、青白く月に照らされたシルエットがエントランスに立っていた。長身、ショートヘア、明日香。
「なにしてんのさ、こんな夜中に」
 声音は低かったけれど、明るく。距離をあけて、明日香はこちらには歩んでこない。
「電話、かけてた」
 受話器を握ったままで、応えた。
「誰にさ」
 短い髪に手櫛を通しながら、明日香が言う。顔の半分が影、半分は月の光の中に。
「さあ、誰にだろう」
「電話してんじゃなかったの?」
「してた」
「カードは持ってる?」
「持ってないわ」
「じゃあ、貸してあげようか」
 明日香はすたすたと鳴海に歩んできた。ポケットから一枚、カードを差し出して。
「これ?」
 差し出されたカードを鳴海は受け取った。裏面は無地、表面は、擦り切れかけた文字と、暗がりによく見えない。
「かけられるものならね、わたしのID。学生のころのね」
 擦り切れて見えた部分は、意図的に誰かが削ったようだった。
「ここにね、わたしの顔がね。削っちゃったの」
 軽く足をひねって、すらりと立つ明日香は、たとえば怜と対峙しているときのような剣がまったくなかった。
「使えるかもしれないよ。機械が壊れてなきゃね」
 明日香は受話器を持ったままの鳴海からカードをとりもどすと、リーダに挿しこんだ。しかし挿しこんだカードは途中でなにかに引っかかり、リーダは読み込まず、機械の中にまで入っていこうとはしなかった。
「だめだね、やっぱり」
 両手をポケットに突っ込み、明日香は唇をとがらせた。
「きっと、わたしのIDなんて、とっくに抹消登録済みなんだわ」
「そうなの?」
「そうでしょ、最初病院にぶち込まれた時点で、大学も除籍になったし、IDが抹消登録になってても、当然だと思うよ」
「わたしも、かな」
「たぶんね」
 それでも鳴海はまだ受話器を握りしめていた。空電音でもいいから、わたしたちがここに取り残されているわけじゃないって、誰か、そう言ってほしい。
「満月、だと思ったでしょう」
 唐突に、明日香は鳴海から離れ、廊下の窓から月を仰いだ。
「違うの?」
「残念ながら。見てみなよ、端のほう、少し欠けてるでしょう」
 受話器を持ったまま、鳴海も窓辺に立つ。まぶしいくらいの夜で、見上げた月は丸く、しかしたしかに明日香の言うとおり、端のほうが少し欠けて見えた。
「信じられる?」
 明日香は腕を組み、目を細めた。
「昔、人類があそこに立ったのよ。信じられる?」
 青白く浮き上がるのは、明日香の通った鼻梁だ。
「行くことのできる場所なのね」
 並んで立った鳴海がつぶやく。遠く、まるで夜空という画用紙の上に描かれたように、ぽっかりと浮かぶ天体を、明日香とふたりで仰いで。
「……行こうと思えばね。行きたいだけじゃだめで、行こうとしなくちゃ行けない場所ね。鳴海さん、月に行ってみたい?」
 いつも見上げるだけの、到底降り立つことができると思ったこともない月面に、行ってみたいと考えたことはなかった。
「世界がこんなになるちょっと前までは、あそこに常駐ステーションがあったのよ。地球の周回軌道には国際ステーションもあったし。いまはもうそれどころじゃなくなって、放棄されちゃったけど。火星への有人飛行だとか、もう夢物語ね。どう? 行こうと思えば行けるのよ」
 空には雲がなかったが、夏独特の濃い空気がたなびいているようで、月は上空でぼんやりと霞んでいた。星はまったく見えない。月が明るすぎるからだ。旧市街方向は明かりも少ないが、新市街、<団地>が並ぶ斜面は煌々と明るい。
「行けるのかな」
「行こうと思えばね」
 明日香は細く息を吐いた。鳴海は握ったままの受話器をまだ離せない。
「外に行ってみようか」
 窓から鳴海に向きなおり、不意に明日香はそう言った。
「外に? 外にって、外?」
「どこだと思うの?」
「<施設>を出るの?」
「知ってた? エントランスって、昼も夜も鍵がかかってないのよ。あたりまえよね、ここは閉鎖病棟じゃないんだから。出かけられるよ。行ってみない?」
 明日香はいまにも鳴海の手を引いていきそうな勢いだ。こっそり建物を抜け出そう、いたずらを思いついた子どものような目をしていた。真琴や怜の前での表情と、あまりにも違う。
「行こう、鳴海さん」
 ほら、はやく。
 明日香は本当に鳴海の手を引いた。引かれながら、受話器を戻した。フックが静まり返った廊下に大きな音を立てたが、明日香は気にした様子もなく、鳴海の手を引いた。

 エントランスの扉は、明日香が言ったように、軽く押すだけで開いた。かすかな蝶番のきしみ、吹き込んでくる風、そして、虫の声。
 外は暑かった。<施設>はたしかに空調が作動していたらしい。全身にまとわりつく空気は湿気をたっぷり含んでいるようだ。
作品名:夏の扉 作家名:能勢恭介