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夏の扉

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 怜はためらっていた。ベッドに腰かけ、枕に片肘をついて。ナイトテーブルの上には<ターミナル>が載っていた。電力の安定供給が望めなくなったいまでも、<機構>がメンバー全員に貸与している簡素な端末機。バッテリーで駆動するが、発電所とは縁遠い遠隔地で行動しても、充電なしで最大で百時間は作動する、時代遅れの最新型だ。怜は知っていた。調査員の誰もが<ターミナル>を携帯していても、けっして信頼せず、紙とペンで書くメモを重視していることを。何よりメモ帳は誤って落下させても壊れない。しかしメモ帳は<機構>上層部から発信してくるメッセージまでを表示できない。だからメンバーは<ターミナル>が役立たずだと知っていながら、手放せない。そして怜は最後にその端末に電源を入れたのがいつなのか、思い出せない。休職してからこちら、とりわけ<施設>に通いだしてからは一度も電源を入れていない。バッテリーはとっくに切れているはずだ。
 怜はソケットから外部電源をつないでもなお、<ターミナル>の電源を入れることに、まだためらいを感じていた。電源を入れた瞬間から、またもとの日常がたやすく戻ってくる、そんな気がしていたからだ。戻るのが嫌なのだろうか。いまの生活を気に入っているのだろうか。<施設>と団地を往復する、この奇妙なもうひとつの日常を。
 春分からこちら、怜は<機構>からのメッセージの類をまったく受け取っていない。いったいいつまでこの休職状態が続くのかもわからない。休職を宣言されたのが唐突ならば、おそらく復帰も唐突なタイミングでやってくるにちがいない。すでに<ターミナル>には、<機構>からの通知が舞いこんでいるかもしれなかった。だからなおさら、電源を入れづらい。
 十七号棟の向こうに焼け爛れて流れていく赤い雲が見えた。夏の夕刻、半袖がちょうどいい。暑くもなく寒くもない。エアコンを止めようか迷っているうちに、外気温と室温の差異から判断したコンピュータがかってに止めてしまった。エアコンがとまった室内はやけに静かだ。空調が止まってしまえば、耳が痛くなるくらいなにも聞こえない。<団地>のそれぞれの部屋は防音も抜群によかった。そして怜は稲村の言葉を思い出す。
 自分は選ばれた人間だったのだろうか。
 そうは思わない。自分で選ばれようと思っただけだ。願わず選ばれることと、意図して選ばれることとの隔たりは大きい。はてしなく大きい。自分は、選ばれようと思って選ばれた。だから<団地>にも住むことができた。両親を海の底に沈みかけた錆だらけの街から、<機構>が管理する保養所に移転させられたのも、自分が選ばれようと思って選ばれた人間だからだ。
 立ち上がり、窓辺に立った。明かりを点けていない室内からは、夕闇の空がよく見える。十七号棟の窓に灯る無数の明かりは、それぞれにさまざまな色合いで、その向こうにあるはずの生活を想起させてくれる。怜は蛍光灯があまり好きではなかったが、遠くから見る緑がかった明かりは、嫌いではなかった。
 静かにカーテンが閉まるように、怜の過ごした物語が終わりに近づいている。<ターミナル>を取り出し、ナイトテーブルに置いた瞬間、そして電源を入れる前から操作方法を反復している自分。怜は自分が環境調査員であることをはっきりと自覚した。<施設>に通いだしてから、自分のことを<機構>の人間だとはっきり自覚するようなことはほとんどなかった。だから、思った。<施設>を軸に回ってきた短いストーリーは、もう終わろうとしている。そして、遠くない未来、閉じた扉をこちら側から開けることはできなくなる。もちろん、扉は向こう側から開くこともない。それどころか、誰もその扉の存在に気づかない。だから開けようとも思わない。
 怜は煙草を一本抜き出して火を点けた。眠っていた空調が稼動する。居心地がいい反面、<機構>が推進するシステムはみな、おせっかいのような気がする。ほっといてくれ、たまにそう言いたくなる。
 そうか、<施設>があんがい居心地がよかったのは、<機構>から見捨てられたように放置されていたからだ。まるで無視するように。
 煙草を喫いながら、春からこちら、<施設>での記憶を巻き戻して再生する。初診の際、向かい合った稲村、気がつけば饒舌になっていた自分、中庭、灰皿、鳴海、談話室の風景と明日香、真琴、そして老婦人。
 老婦人はどこでどうしているのだろうか。いま怜は、自分が彼女にはどう見えているのか、尋ねてみたかった。いまでも彼女は怜に、鏡の話をしてくれるだろうか。まだおたがいを鏡に見立て、背を向け合っているのだと穏やかな笑みを浮かべて話してくれるだろうか。あのふくよかで柔和な微笑で。
 一本すっかり煙草を灰にしてしまうと、怜は一瞬息を止めた。そして目を閉じた。何の前触れもなく目を閉じたとき、瞼の裏によみがえってくる光景はなにか。それを知りたかった。誰が怜を呼ぶだろうか。誰も呼んではくれないだろうか。薄く目を開く。漂う煙は瞬く間にダクトへ吸い込まれていく。怜の周囲からなじんだ煙草の匂いが失せていく。大きく嘆息。もういちど暮れゆく空を見上げて。
 そして、<ターミナル>の電源を入れた。

 青く沈んだ夜、鳴海は部屋を出、談話室を過ぎ、階段を下りた。足音を忍ばせて、一歩一歩降りた。一階に下りると、いくぶん空気が濃くなったような気がして、鳴海は深く夜気を吸い込んだ。室内にいるはずなのに、空気は青く澄んでいて、夜風に当たっているような、穏やかな心地よさがある。鳴海は待合室の掃き出し窓が開いているのではないかと思ったが、見てみると窓はしっかりと施錠されていて、開けられた形跡はなかった。月の明るい夜で、明かりもないのに待合室は、淡く白い光に照らしだされ、灰皿が月光を受けて鋭く輝いていた。
 カーテンが引かれた受付の向こうはうかがい知ることもできず、けれど鳴海はいつもの女の子がキーを叩き続けているような気がした。彼女はどこで休んでいるのだろう。稲村の部屋も、事務員たちの部屋も、鳴海は知らない。子どもたちの病棟は一階の奥にあると真琴が教えてくれたが、稲村たちも一階のどこか廊下の奥に部屋を持っているのだろうか。
 待合室を離れ、常夜灯と月が照らす廊下を、音楽室とは反対に折れた。外来用のトイレがあり、水面のようにのっぺりとつづく廊下が一本、ずいぶん長く奥まで伸びている。稲村たちはこの奥にいるのだろうか。部屋を出るときに時刻を確認してこなかった。いいかげん真夜中だ。彼らだって、もう深い眠りについているにちがいない。
 左側は窓。外は驚くほどに明るい。車寄せに突っ立っている樹がアスファルトの上に影を落としていた。光がわずかにも射していれば、影が落ちるのだ。光と影は、常にともにあるのだ。
 鳴海は満月の深夜、電話を探していた。確か、そう、<施設>に一台、公衆電話があったはずだ。かすかな記憶と、誰かの言葉。はたして回線が生きているのかどうか、それはまったく頼りない。おそらく電話があったとしてもそれは形だけのもので、受話器の向こうの誰かの部屋につながっているのかというと、きっとつながっていない。鳴海はなぜか確信を持ってそう想っていた。
作品名:夏の扉 作家名:能勢恭介