夏の扉
目を開き、顔を上げれば、そこはいつもの談話室だ。いやに白っぽい壁が目について、しかもそれがひどくまぶしい。鳴海の瞳は露出がオーバー気味。多すぎる光の中で、鳴海はテーブルのひとつに目をやった。忘れよう、考えないでいようと思っても、ここ二繰れば嫌でも思い出してしまう。ひとつの、終わってしまった、記憶。
老婦人は行ってしまった。ここを出て行ってしまった。ろくに話をすることもできず、ずいぶん長いあいだいっしょに住んでいたはずなのに、自分は老婦人のことをなにも知らない。ときおり交わす言葉は電報のやりとりのようで、味気がなかった。それでも怜が現れてから、怜について交わした言葉は鳴海の中に残っていた。老婦人が言っていた、鏡の話だ。それは、おそらく怜と持つ共通の「老婦人の記憶」だ。老婦人は怜とも鏡の話をしたという。けれど老婦人は、鏡の向こうへ行ってしまった。
また、残されてしまった。
鳴海の意識に響き渡るのは、がらんと誰もいなくなった部屋でひとり聞く、ドアの閉まる音だ。椅子にはみんなの温もりが残っている。ついさっきまでの話し声が、まだ部屋には残っている。そう、記憶の残響。サイドテーブルに載っているのは、あれは灰皿だ。つぶれたフィルターから、うっすらとまだ煙が立ち昇っていて、鳴海は頬杖をついたまま、煙の軌跡を追う。振り向かないで、みんなが行ってしまったドアはけっして探さないで。
おなじみの妄想だった。妄想の中で、いつだってわたしはひとり、部屋に残されている。長椅子に取り残されたぬいぐるみを抱き上げる。斜光が部屋の奥まで届いていて、誰かが残した煙草の煙がたなびいていた。ぬいぐるみの顔をのぞきこむと、斜光を受けたイミテーションの瞳はまるで、潤んでいるように見えた。ぎゅっと抱きしめたくなる衝動を抑えながら、鳴海はこの妄想が実体験だったのか、それとも純粋に自分がつむぎ出した架空の悪夢のか、探っていた。
ぬいぐるみは暖かかった。誰かが抱きしめていたぬくもりがそのまま残っていた。懐かしい匂いがした。知っている匂いだ。自分の匂いではない、自分に近しい誰かの匂いだ。表情などあるはずもないのに、鳴海はぬいぐるみがひどく寂しそうな顔をしていることに気づいた。君も、わたしと、同じね。
だめだ、あふれる。
こぼれそうになる涙は、彼らのあとを追わないかわりに、とどめることなく流すことにした。ぬいぐるみのつぶらな瞳が、まっすぐに鳴海を向いていた。そして問いかける。
(なぜ、泣くんだい?)
鳴海はそれに答えない。理由を説明できない。だから返事のかわりにぬいぐるみを抱きしめる。君を抱いてくれる人間は、もうここにはいないから。わたし以外、もう誰もここにはいないから。
魂など宿っているはずもないぬいぐるみを、鳴海は手放すことができない。彼女の手をはなれた瞬間、ぬいぐるみもまたこの部屋を出て行ってしまうような気がしていた。鳴海ではない、ほかの誰かに抱かれていた記憶を胸に、いつしか朽ち果てていくその姿が、ありありと目に浮かび、鳴海は流れる理由もない涙を止めることができなかった。
「ああ」
ふと聞こえた自分の肉声に驚く。
ここは、どこ?
空調の音、まぶしすぎる陽射し、真っ白い壁、テーブルと椅子、窓、中庭……談話室。
「あ、」
現実と妄想が交錯し、ふたつの世界をつなぐものは、頬を伝う涙だけ。鳴海は談話室の椅子に腰かけ、出て行った老婦人を意識の向こうに追いかけていたことに気づいた。もう、会えないかもしれない彼女のことを、追っていた。
テーブルに突っ伏した。天板はいやにひんやりとしていて、気づかないうちに火照っていた頬に心地よかった。
「白石さん……」
無意識につぶやいた名前に、ひょっとするとさほどの意味はなかったのかもしれない。けれどそれが合図だったかのように、鳴海は席を立った。頭の上で低く空調が鳴っていた。彼と見た海の、あの潮騒とは似ても似つかない、かすかに耳障りな作動音だ。
鳴海は談話室を出た。階段室にまっすぐ。そこには小さな窓がある。そこからは中庭ではなく、エントランス外の車寄せが見下ろせた。あの日、明日香が鳴海を見送った場所だ。
窓ガラスにそっと両手をついた。そして、頬を寄せるように外を見た。
並ぶ送電塔、防風林、セイタカアワダチソウが繁る荒地と、ひびだらけのアスファルト、ポンプ施設と傾いた電柱。あの防風林の向こう側に港湾道路が走っていて、そこに電停がある。鳴海の視線は防風林から<施設>へと、彼の足跡をたどる。怜を、探す。
時刻を考えれば、もう彼は<施設>をあとにしているにちがいない。電車の時間は知らないが、談話室に上がってこなかったのだから、もう建物からは出て行ったにちがいない。だから鳴海はアスファルトの道を帰途につく怜の後姿を探していた。そしてほどなく、彼の背中が防風林沿いの道へ左折するところを見つけた。長身、痩身、間違いなく、怜だ。
「白石さん……」
帰っていく怜の後姿は、あの妄想の部屋を思い起こさせた。あのぬいぐるみがある部屋を出た怜は、きっとこんな風にして家へ帰っていくのだ。彼の場所へと。
あの斜光の寂しい部屋の風景がまた鮮明によみがえってきたが、涙が出なかった。そして鳴海はその理由がわかった。
続いているのだ。
あの妄想の部屋の外には、なにもない。なにもないのだ。部屋の中だけが鳴海の世界であって、その外側と内側はつながってはいない。だから、いくらあの部屋の窓から外をのぞいてみたところで、ドアの向こうを去っていく人影を見つけることはできない。そもそも窓の外など見ることができないし、のぞこうと思ったこともなかった。しかしいまは違う。<施設>をあとにし、電停へ向かう怜の姿を追うことができる。<施設>の外もまた、世界は続いているのだ。ひまわりの丘も、海も、川も、街もみな、鳴海が見を置く世界と同じ、つながった共通の世界なのだから。
そこまで思いいたってはっとした。わたしは、彼と同じ世界に住んでいる。遠ざかっていく怜は自分の部屋に帰るだけだ。別な世界へ帰っていくわけではない。しかし頭ではわかっているそのことが、まだ鳴海は呑み込めずにいた。両手の指をガラスに突き立てるようにして、鳴海は怜を追った。ワイヤー入りの強化ガラスがもどかしかった。
怜は一度も振り返らず、角を曲がって防風林沿いの道を進んでいく。きょうは風車は回っていないのだろうか。風切り音が聞こえない。もし風が吹けば、彼は振り向いてくれるだろうか。わたしの世界を。
けれど怜は振り返らなかった。まっすぐ、ときおり背の高い影に見え隠れして、そのまま防風林の向こうへ行ってしまった。帰って行ってしまった。
鳴海は壁にもたれて、それでもしばらく防風林と港湾道路が交差する角をながめていた。長い時間ながめていたから、雲の形が変わっていく様もよくわかった。青空はわずかにくすんでいて、自分の色鉛筆ではけっして描くことのできない、夏の色に染まっていた。
頬に感じるガラスが、ほのかに暖かかった。夏の体温を、鳴海は感じていた。
四九、月夜



