夏の扉
ひとつのストーリーが終わろうとしていた。鳴海が感じる『終わり』でもない。怜が見てきた『終わった世界』でもなかった。ひどく限定されたひとつの流れが、フェイド・アウトしようとしているのだ。やがて怜はそのストーリーから切り離される。あたかも春からこちら過ごしてきた日々が、物語本編とは無縁の、短い閑話休題の数ページであったかのように。そのことを怜は確信を持って実感していた。
インターミッションに登場した人物たちは、本編には登場しない。環境調査員として復職した自分が、いったいいつどこでここの入所者たちと出会う機会があるというのだろうか。
あと、数週間。
そこでぷっつりと、彼女たちとの関係は永遠に途切れるだろう。それは間違いない。
だから怜は待っていた。
彼女を。
彼が来ることは知っていた。たまたまカウンセリングが自分と同じ曜日なのだ。しかも、彼の次の診察が自分だ。何度か待合室で顔をあわせたのは、寄る辺ない気分で自室を出、談話室にもいられず階段を下り、カウンセリングまでの時間を古ぼけた長椅子に腰かけて過ごそうと思ったからだ。
彼がはじめてここを訪れた日のことは憶えている。灰皿を前に思案している風だった。自分がまだ外にいたころ、すでに喫煙は犯罪行為に等しく叫ばれ、喫煙者は同情と軽蔑と糾弾と、いろいろな感情がないまぜになった目で見られていたから、怜が灰皿を前にしてライターに点火しなかった理由もわかる。だから、言ってみた。
喫わないんですか。
気配を消していたつもりはなかった。それにしてもあのときの怜の驚きようはなかった。まるでいたずらを見つかった子どものようだった。せかされるように火を点けた煙草をはさむ指は、父のそれよりも長く細かった。
怜がなぜあの日待合室にいたのか、初対面ではわかるはずもない。よもや外来の患者だとは思わなかった。思いもしなかった。とはいえ見舞い客にも見えなかった。ここに誰かの見舞いに来る奇特な人間はめったにいない。彼がそのめったな客人なのかとも思ったが、自分には関係ないと思った。なにより怜の顔に見覚えがなかったから、自分とはまったく関係のない人物であることはすぐにわかったが、彼がいったいなにをしに<施設>にやってきたのかがわからなかった。
後日明日香は怜を指して門外漢呼ばわりをしていたが、鳴海はあの日はじめて出会った怜を、即座に街の人間とも思わなかった。もちろん<施設>の人間だとも思わなかった。彼はどこの誰にも見えなかった。あんがい稲村に新しい入所者だと紹介されても納得したかもしれないし、ただの見舞い客だと紹介されてもうなずいたかもしれない。初対面の怜はつかみどころのない人間だった。
暑い。
ここ数日、とうとう<施設>のエアコン使用制限が解除された。数年来の猛暑だと、明日香は言っていた。今年の夏は暑いよ。うんざりね。彼女は暑い夏が嫌いだ。談話室でクラッシュ・アイス山盛りの氷水を飲み続ける真琴の姿を、明日香は恨めしげな顔をして眺めている。明日香は素直に夏の暑さが苦手だと告白できないのだ。わたしにも冷たい水を頂戴と、真琴に催促できない人間なのだ。夜中窓を開け放っていると、数部屋隔てた明日香の窓から、低く気象通報が流れてくる。誰も文句を言わないのは、希少なラジオを明日香が持っているからだ。外に出ることがなくても、入所者たちは明日の天気が気になる。その気象通報も、四日前から聞こえなくなった。エアコンの使用制限が解除されたから、明日香は窓を閉めきって、ひとり冷蔵庫にこもりラジオを聞くようになったからだ。昼間は談話室に出て行くが、真琴とふたりで建てている家も、しばらく工事はストップしたままらしい。
<施設>の空調装置は、たとえば怜が住んでいる<団地>の設備よりは数段劣っているにちがいない。それくらいの予想は外の世界にうとい鳴海にも想像がつく。要はサーモスタットが旧式なせいで、きめ細かな温度調節ができないから、ある設定温度を保とうとするエアコンは、勢いあまって過度な冷却を提供してくるのだ。だからこの部屋は寒い。
鳴海は汗をかくのが嫌いだ。身体がべたつくし、何より自分の匂いが嫌いだ。無味無臭の典型の<施設>に暮らしていると、嫌でも匂いに敏感になる。食事の匂い、洗面所の匂い、廊下の匂い、エアコンのダクトからもれてくる独特の匂い、シーツに転がったときの匂い、明日香の匂い、真琴の匂い、稲村の匂い、怜の匂い、樹の葉の匂い、風の匂い、夏の匂い、海の匂い。
不意に談話室の匂いが戻ってくる。かすかな薬品の匂いにまじって、長く閉ざされた空間がもつ独特の匂いが。壁や床や天井や、ありとあらゆる塗りこめられた感情がすべて、そこにいる人間を包みこむ。黒い長椅子、壁の水彩、油彩、受付の蛍光灯、中庭へ通じる掃き出し窓、脚の長い灰皿、そして煙草の匂いだ。
部屋を出た。
天井から低く空調の音が響くだけで、廊下も談話室も静かだった。磨き上げられた床がきょうも水面のようで、一歩踏み出したとき、廊下に本当に波紋が広がるのではないかと、鳴海は一瞬動きをとめた。
朝食が済んだ談話室には、あの読書青年がひとり窓際でページをめくっているだけだった。彼が誰かと話をしているのを見たことがない。真琴も明日香も見たことがないという。不思議な人物だった。年齢もわからない。つややかな頬は少年にも見える。細めた目は老人にも見える。けれど彼もまた、<施設>の水に染まった人間だ。もう、街へは出られないにちがいない。
読書青年が一定のペースでページを繰る音と、エアコンの稼動音、それ以外に何も聞こえない。<施設>は彼以上に不思議だ。廊下にならぶドアからは、部屋の中の息遣いがまったく伝わってこない。人の気配を感じない。だから鳴海はときどき、ここにたった一人で住んでいるように思えてしかたがないときがある。
談話室の前で鳴海は思案していた。階下からも物音がしない。きょうはオルガンも聞こえない。風力発電のプロペラも止まっているのか、風切り音も聞こえない。耳の底から湧き上がる金属音、それとエアコンの稼動音。鳴海は自分が巨大なダクトの中に閉じ込められて、吹き抜ける匂いのしない風に追い立てられる姿をイメージする。それがあんがいぴたりとはまり、背筋を寒気が駆け抜ける。目を強く閉じて、奇妙なイメージを振り払う。
そして見えたのは、黄色い花だった。
ひまわりだ。
けれど風車は見えなかった。青かった空も見えかなった。一面のひまわり畑は意識のかなたでうずくまっていた。だから見えたのは、一輪のひまわりだけ。水面を流れていくひまわりだけ。
別れを告げたつもりはなかった。もし手折ったひまわり一輪を川の流れに投じたとして、それが誰に、何に対する別れなのだというのだろう。鳴海はわからなかった。しかし鳴海はあのとき、たしかに別れを告げた。あのひまわりを持っては、<施設>へは帰れないとも思っていた。
橋の上から、ただ流れていくひまわりを目で追った。そしてしばらくは振り向かなかったつもりだった。自分ではずいぶんと長い時間を数えていた。じゅうぶんに待ってから、言った。行きましょう、と。



