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「助かったよー!本当にありがとう、あき。」
鞄を振り回しながら、信親が声を弾ませた。
「どういたしまして。」
秋桜は、信親が振り回す鞄を抑えて言った。鞄がおとなしくなると、信親の手から取り上げる。
「そういうのは変だからやめようよ。」
信親は秋桜の手に渡った鞄を取り返そうとするが、秋桜は譲らない。
「今は誰もいないし、変に思う人はいないよ。これが俺の仕事だから。」
どうせ言い出したら聞かないことを知っているので、信親は諦めて歩き始めた。
「いつもあきが、生徒会の仕事手伝ってくれたらいいのになぁ。」
おいおい、と秋桜が困ったように笑った。
「のぶは、今度、生徒会長になるんだろ。しっかりしてくれよ。」
秋桜よりも二歩ほど先を行く信親が立ち止って、振り返った。
にやり。
口の端を釣り上げて、いたずらを思いついた子供の様に笑う。
「会長には、副会長を指名する権利があるって知ってる?」
秋桜は眉を吊り上げる。それから、目を細めて信親をとらえた。
「やんないよ。」
ははははは。
声を上げて、愉快そうに笑って、信親は後ろを向いたまま数歩歩き、くるりと体を戻す。目の前に信親の背中が現れてから、秋桜は長いため息をついた。
夕方まで降っていた雨で、アスファルトはところどころ湿って色が濃くなっている。道路のくぼみには水がたまっている場所がまだあった。信親は、期待せずなんとなく空を見上げてみる。曇り空を想定していたのに、雲はほとんどかかっておらず、星も、月もちかちか瞬いていた。
きれいな夜だな。
「のぶ?」
秋桜の声で我に返る。空に見とれている間、いつの間にか秋桜が信親を追い越していた。五メートルほど向こうで、秋桜は首を傾げて信親の様子を見ている。
「ああ、ごめん、ごめん。」
慌てて、秋桜に駆け寄る。信親が秋桜の隣に追いつくと、二人はまた元のペースで歩き始めた。
二人が通う高校は市街地の外れに位置していた。高校の正門から東側に向かえば商店街、西側に向かえば住宅街がある。住宅街を抜けた先に、城崎邸はあった。徒歩で十五分ほどの道のりだ。
新しい住宅が並んでいる中に、古い商店が佇んでいる。この角を曲がればもう、自宅はすぐそこだった。くるりと左に道を折れる。信親は、立ち止まり、頭を抱えた。
「やめてって言ってるのに……」
自宅の門の前に十人ほど人が集まっているのが見えた。“お出迎え”だ。人だかりの内何人かがこちらに気づいて手を振り始める。急に歩くペースが落ちた信親の手を、笑いながら秋桜が引っ張った。
「まぁまぁ。」
秋桜に引かれるまま、仕方がなさそうに信親も自宅へと近づいた。
「お帰り、二人とも。」
繁親が嬉しそうに声をかけた。繁親が発した声を皮切りに、周りの人々も口々に二人に挨拶を始めた。警備員もいたし、使用人もいたし、会社の人間もいた。
「ただいま、じいちゃん。」
「ただいま。」
いつもと変わらない秋桜とは対照的に、信親はひきつったように笑っている。
“お出迎え”は昔からある恒例行事で、小さいころこそ何も思わなかったが、さすがに高校生にもなってこれは恥ずかしい。いつも繁親がやってきて、それを見かけた人間が集まってきて自然とこうなるらしい。
「あれ?父さんと母さんは?」
いつも必ずこの集会にいるのに、今日は見当たらないことを不審に思って、信親が訊ねた。
「由規男は出張。冬美さんもついて行った。」
繁親は、急なことで悪かったな、と申し訳なさそうにそう言った。信親はあまり興味がなさそうにふぅん、と唇を尖らせただけだった。
そのとき、屋敷の方から、もう一つ、小柄な人影がこちらに向かってくるのが見えた。信親は、一体誰だろうかと目を凝らす。すると、繁親が信親の視線に気づいてそれをたどり、その人物を発見する。
「おお、来てくれたか。」
繁親が声をかけると、人影は小走りになって近寄ってきた。庭を抜けて、門の側までやってくると、明かりでようやく誰なのか特定できた。
「奈津子に来てもらった。由規男と冬美さんの代わりに。」
奈津子が首を傾けて、微笑んだ。奈津子は、由規男の妹だ。城崎繁親の長女で、信親と秋桜にとっては叔母に当たる。城崎邸のすぐ後ろに背中合わせのように建つ一軒家に一人で暮らしていた。
「お久しぶりです。信親さん、秋桜さん。」
信親と秋桜は揃って頭を下げた。信親は、奈津子と会うと、いつも何とも言えないような気持ちになる。奈津子はいつも笑っているが、それは儚く消え入りそうで、信親を切なくさせた。
「こんばんは、奈津子さん。」
秋桜が挨拶をして、信親も、元気でしたか、と慌てて付け足す。奈津子は小さくうなずいただけで、言葉は発しなかった。
「さぁさぁ、夜は冷える、家に入ろう。」
がははは、と豪快に笑いながら、繁親が周りの人間たちの背中を押し、門の中へ入れた。ぞろぞろと連れ立って、屋敷に向かう。
「そういうわけだから、信親のことは頼んだぞ。秋桜。今日は信親と一緒にいなさい。」
繁親は秋桜の肩をポンポンと二回たたいた。秋桜はただ笑顔でうなずいて見せる。繁親も満足そうにうなずいた。
「食事は部屋に届けさせることにしよう。」
どやどやと玄関に人がなだれ込む。繁親は靴を脱いで、スリッパに履き替えると、さっさと自室のある三階へ階段を上って行ってしまった。
信親は二階の自室へ向かう。秋桜はその後ろをついていく。
「ほんとうに過保護。僕、もう十六歳なのに。」
「跡取りは大変だよなぁ。」
どうでもいいけど、と語尾に着くかと思うほどには興味がなさそうに秋桜が言った。
「秋桜も言ってやってよ。僕に拘束されるの、いやでしょ。」
「べーつーに。これが俺の仕事だし。今までだってこうだったし、反対に、何したらいいかわかんなくなるよ。」
「ほんと?自由が欲しいなって思わないわけ?」
信親が自室の部屋のドアノブをひねって押し開けながら、眉根を寄せて、聞いた。珍しく、真剣な顔をしている。秋桜が肯定したら、そのまま秋桜の手を引いて屋敷を飛び出してどこかへ行ってしまいそうだ。
秋桜は、首を傾けて、目線を落とす。
「俺に、人の心は分からないよ。」
両の掌を顔の横で天井に向け、肩をすくめて見せた。
信親は、それ以上言うことはやめた。
分かっている。
分かっているはずなのに、いつもこうだ。