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城崎繁親(しげちか)は、自宅の書斎で分厚いファイルをめくっていた。黒い、プスチック製のポケットファイルを一枚ずつめくっては、ちがう、これもちがう、とやっている。ファイルに挟まれた紙には顧客の情報と、客の要望や好みが事細かに記載されていた。繁親は大きくため息をつく。諦めて、勢いに任せてファイルを閉じた。
ばたん。
閉じた勢いで机の上にまとめてあった書類が三枚めくれあがり、二枚がひらひらと床に落ちた。
「よっこいしょ。」
重い腰を上げて、紙を拾い上げると、椅子に座りなおして老眼鏡を外した。繁親は右手の親指と人差し指で両目の目頭のあたりをつまむように抑える。来月は七十歳だ。元気な社長という呼び声は高いが、老いには勝てるはずもない。かすむ視界の端で、写真に収まる中年の女性が笑っている。
――君は、いつまで経っても若いままだな。
本の要塞。広い部屋の西側と東側は壁がそのまま本棚になっている。南側は窓。北側には重厚な作りの木製のドアがどっしりと構えている。夕時の薄闇のような紺色のじゅうたんが床一面を覆っていた。繁親は、大きく伸びをして、大きく息を吐いた。見慣れた部屋が、最近とても広く大きく感じるようになった。
ヴー、ヴー、ヴー。
繁親は、視線を手元に戻す。銀色のスマートフォンが青い光を点滅させながら体をゆすっている。画面をさっと指でなぞる。
『新着メール 一通 秋桜』
――今から学校を出ます。一九時半頃家に着くと思います。――
「そうか、もうこんな時間か。」
繁親は、「わかった」とだけ秋桜に返信してから、電話帳を呼び出した。人差し指で画面をスクロールさせ、止める。一人を選び出した。
――奈津子(なつこ)、に発信します。よろしいですか。――
――はい――
プルルルル、プルルルル。
ピ。
「はい、奈津子です。」
少女のような、優しい声が返ってくる。繁親はほっとした。
「今、家か?」
「ええ。」
「すまないが、三日程うちにいてくれないか。由規男(ゆきお)が出張でいないんだ。」
「お義姉(ねえ)さんは、どうしたんですか。」
「冬美さんも、着いて行ったんだ、由規男の出張に。」
少し間をおいてから、奈津子はいいですよ、と言った。
「今からですか。」
「今すぐにとは言わないけれど、今日からいてくれると助かるかな。ゆっくりでいい。準備ができたらこっちへ来てくれ。」
「わかりました。一時間以内に行きます。」
ぷつ。
通話が切れた。繁親は苦笑いして、通話の終わったスマートフォンを見つめる。
「急がなくていいって言ったじゃないか。」
スマートフォンの画面が暗くなり、しわだらけの自身の顔が映る。また、ため息をついた。
こん、こん。
デスクの正面の扉が向こう側から二度叩かれた。繁親は顔を上げて、よく通る声でどうぞ、と入室を促す。
がちゃがちゃ。
きぃ。
遠慮がちにゆっくり開いた扉の向こうから、繁親の秘書が現れた。
「失礼します。」
態度とは裏腹に、気の強そうな細い目元でデスクに座る繁親をとらえると絨毯の上を滑るようにするすると滑らかに歩いて繁親の隣にやってくる。
「どうした、柚(ゆず)。」
「社長宛の郵便物を持ってまいりました。」
五通の封書が差し出される。
「ありがとう。柚は、今日これからの予定は?」
受け取りながら、繁親は訊ねた。
「開発に呼ばれておりますので、出社しようと思っておりますが、何か御用がありますか?」
繁親は、首を横に振った。
「いや、何もないよ。気を付けて行っておいで。」
柚はゆっくりと頷いた。
「明日の会議の前には必ずお迎えに上がります。」
「ああ、頼むよ。」
柚はぺこりと一度頭を下げると。また滑らかに部屋を闊歩して出て行った。柚の後姿を見送って、繁親は手元の封書に視線を落とす。一番上は白いA4の封筒で、顧客からの依頼の書類だった。二通目は商談の相手との文書。三通目は支社からの報告書。封は開けずに、次々と差出人だけ確認する。四通目は、茶色の細長い封筒だった。城崎繁親様、とだけ印字してあり、あとは何も書かれていない。裏返しても、やはり何も書かれていなかった。不審に思って、繁親は、他の封筒をデスクに置いて、四通目のそれの口を開けようとした。封筒の口は折られていただけで、留められてはいなかった。切手も無い。繁親は、眉根を寄せて、首を傾げる。どうやら、直接城崎家のポストに投函されたもののようである。
繁親は、封筒の両端に力を入れて筒のように広げ、中を覗き込んだ。怪しいものが入っていないか確認したが、紙が一枚入っているだけである。取り出して、三つ折りのそれを慎重に広げる。やはりこちらも活字によって書かれた手紙であった。
「……誰だ。また、あの子が奪われるんじゃないだろうな。」
繁親は、自分自身が何者かによって監視され、その掌の上で転がされているような錯覚を覚えた。もちろん誰もいないのに、部屋の中をきょろきょろと見回す。自らの背後に大きく広がるガラス窓を振り返った。もう、外はすっかり暗くなっていた。見下ろす庭では、警備員が二人、立ち話をしていて、いつもと変わらない光景があるだけ。なんら変わったことはない。それでも薄気味が悪くなって、繁親はカーテンを引き寄せ、ぴっちりと真ん中で閉じた。握りしめた白い便箋には、もう一瞥もくれずに両手でくしゃくしゃと丸めるとゴミ箱に叩きつけるように捨てた。黒い、革張りの椅子の背もたれからスーツのジャケットを乱暴にひっつかんで、荒々しく部屋を突っ切り、大きな音を立てて扉を開いて部屋を出る。誰もいなくなった部屋の静けさを、寂しがるように、扉が再び大きな音を立てて乱暴に閉まる。
取引をしましょう。
私はあなたの望むものを用意できます。
あなたは私の欲しいものを持っています。
応じなければ、奪いに行きます。
あなたの、大切にしているものを。