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――城崎 信親
画面に人差し指で触れて、左から右に向かって滑らせた。通話時間がカウントされ始めたのを確認してから、秋桜はスマートフォンを耳に当てる。
「もしもし、秋桜。今どこにいるの?」
「二年B組の、のぶの席。」
「え。なんで?何してるのさ。」
「なんにもしてない。」
「生徒会室まで来てくれない?」
「どうして?」
そこで秋桜は、信親の背後がいつもと違って静かなことに気が付く。いつもならばうるさい生徒会の面々が何かしら口を挟んでくる。しかし、今日はそれがない。
「実は今日、僕一人でね。僕のこと待ってるなら、手伝ってもらおうかと思ったんだ。」
秋桜は、ため息をつく。電話越しにも伝わるように、わざと、大きく。
「もっと早く言えばいいのに。授業終わってから、結構待ってたよ、俺。」
「あ、うん。そうだね、ごめん。でも、さっきまでは他の委員会と打ち合わせしててさ。」
秋桜は、椅子から立ち上がった。椅子を押して机の下に入れる。
「今、行く。」
「ありがと。待ってるね。」
――ピ。
通話が切れる。電源ボタンを押して、机の横でだらしなく口をあけているカバンに放り込んだ。
この、お人好しが。
文化祭で忙しいこの時期に、他の役員を休ませて一人で仕事を済ませられるわけがないだろうことは、部外者の秋桜でも容易に想像がつく。
――そして、秋桜がそんな信親を放っておけるわけがないことは信親が一番知っているに違いない。
乱暴につかんだカバンを肩にかけると、秋桜は廊下に出た。長い長い廊下の向こうは夜に浸食されて、何も見えなかった。教室を二つ通り過ぎると、壁が途切れて階段が現れる。階段は踊り場だけ、電気がつけられていた。秋桜がぼんやりとした暗がりの階段を昇り始めると、上の方から、軽やかに階段を下りてくる足音が聞こえた。秋桜は踊り場でいったん立ち止まる。やがて足音は頭上まで下りてきて、その姿を明らかにした。
「あら、城崎君。」
保健室の先生だ。今年の春から新しくやってきた先生で、若くてきれいな先生だと評判がよく、野球部やサッカー部の連中は怪我をして保健室に来ることが増えたらしい。秋桜は帰宅部で、怪我もしなければ健康なので、保健室は一度も利用したことがなかった。挨拶ぐらいしかしたことがないのに、まさか相手が自分のことを知っているなんて思いもいしない。
ああ。
合点がいく。きっとまた信親と間違えられている。
「こんにちは。」
とりあえず、秋桜は挨拶をした。
「いつも二人一緒なのに、今日は一人なの?お兄さんは、生徒会?」
秋桜は少しだけ驚く。表情には出ていないはず。
「そうです。」
先生の表情は影になってあまり見えない。
「どうして、俺のこと……。俺、保健室でお世話になったこと、無いなって。」
「何言ってるの、あなたたち双子って言ったら有名人じゃない。」
秋桜は首を傾げた。
「有名人。」
心当たりのない言葉を拾って口にしてみる。彼女は照れたのか、或いは焦ったのか、少し声が大きくなる。
「ファンクラブもあるって聞いてるけど。」
聞いたことがない。はぁ、と秋桜は返事に困って辛うじて気のない声を出した。
「知らないの?」
「知りませんよ。」
「そうなの。」
ふふ。
先生は、空気をくすぐるように柔らかく笑って、たたた、と階段を下りてきた。秋桜とすれ違う。秋桜はそれを目で追いかけ、やがて体を反転させた。見上げていた先生を、今は見下ろしている。
「文化祭頑張って、ってお兄さんによろしく。あと、文化祭明けの中間考査だけど、期待してるね。職員室では、今回はどっちが点数高いかって話になってるのよ。私は、あなたに賭けたわ、秋桜君。じゃあね。」
言うだけ言って、先生は姿を消した。本当の話なら職員室は意外と暇なんだな、と思う。残念ながら、今回の考査は信親の方が勝つことになっている。
しばらく階段に立って、先生が消えていった方を見下ろしていたが、はっと我に返る。秋桜はまた体の向きを変えて、階段を昇った。廊下もとても静かで、足音がよく響く。まぶしい踊り場を通り過ぎた。もう十二段上がり、三階に着く。やはり廊下は暗くて、ただ、のっそりと左右に横たわっている。左側を向くと、二つ先の教室に電気がついていた。それが、生徒会室だ。男子トイレを通り過ぎ、女子トイレを通り過ぎ、教室を通り過ぎる。生徒会室の前に立ってドアに手をかけると、まさにその瞬間、自動ドアよろしく、それは勝手に開いた。
「足音が聞こえたから。」
信親が、ちょっとだけ首を傾けて笑った。その衝撃で、眼鏡がずり落ちる。秋桜は、信親の眼鏡を押し上げて、教室の中に入った。
「話し声もしたけど、誰かいた?」
「耳だけいいんだもんな。」
信親は笑いながら、まぁね、と得意げに鼻をこする。
「保健室の先生。俺、保健室行ったことないのに、俺のこと知ってたよ。変だよな。」
「保健の先生って、生徒のこと結構把握してるみたいだよ。」
「へぇ。俺は全職員のこと把握してないってのに。」
信親は、デスクトップ型のパソコンの前に座った。秋桜は、離れた場所からパイプ椅子を持ってきて、信親の隣に座る。パイプ椅子を広げようとすると、さびているのかきいきいと音がした。
「それは胸を張って言うことかな。」
信親は口元に手を当てて、上品に笑った。秋桜は、自分の目の前にある電源ボタンを長押しして、パソコンを起動させた。
「あとさ、俺らのファンクラブがあるんだってよ。」
ああ、と信親は興味がなさそうに返事をした。知ってるのか、と秋桜は聞く。
「知ってる、知ってる。保健室の先生は、秋桜派の幹部らしいけど。」
「派閥もあるのかよ。」
「昨年度の卒業生が始めたらしいよ。」
知らなかったのは自分だけか、と秋桜は肩をすくめ、首を傾げて見せた。
「僕が、あきにはこの情報が入らないようにしてたんだよ。あきに近づく女の子が少しでも減るといいと思って。」
「まるで俺が女の子に興味ないみたいに。」
じとっとした目線で、信親が秋桜を見つめた。
「女の子の誘いを断るぐらい、自分でできるよ。」
今度は信親が肩をすくめる。
「だって、あきはいっつも女の子泣かすじゃん!」
小さくパソコンの起動音が鳴る。ログインするために、信親は秋桜を向いていた体を正面に直し、ぽつぽつとキーボードをたたいた。
「小さいころの話だろ。大体、ひとの気持なんかわかんねーもん。」
もぅ。
信親は、エンターキーをはじくのと同時に小さく不満を呟いた。
十八時十分。
一日の最後のチャイムが鳴る。