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前に来たときは、女の人とすれ違って、肝を冷やしたことを鮮明に覚えている。ここで何をしているの、なんて聞かれてしまえばひとたまりもない。尻尾を巻いて逃げ出す他に、千春に与えられた選択肢は無かったはずだ。
しかし、彼女は悲しそうに微笑んだだけで、何も言わずに行ってしまった。
言い訳をするならなんだろう、とか、逃げるぞ、とか肩に力の入っていた千春は拍子抜けして、彼女の背中を見送った覚えがある。 不思議な人、と思ったが、向こうからすれば千春も十分不審者なのだから人のことは言えない。
延び放題の雑草に足元をとられそうになって、千春の思考は現在に戻ってきた。昼間でも薄暗かったのだから、夜の黒の濃さは墨をかけたようである。
窓のない小屋は外から見ればどこが入り口かわかりづらい。四方が全く同じ作りで、壁面は一様で装飾もない。
こんなことになるとは思わなかったにしろ、調べておいてよかった。
千春は建物の入り口の壁に耳を当てる。 何も聞こえない。本当に誰かいるのだろうか、騙されているのではないか、という不安が急に大きくなる。そう、相手は味方ではない。正確には相手が味方ではないのではなく、相手にとって自分が味方ではないのだ。今更ながらその事実を噛み締める。懐柔したと思ったが手なづけられたのは自分の方なのかもしれない。このまま、秋桜に取り押さえられて、繁親に差し出される可能性だってある。
邪推を吹き飛ばそうと、首を振り、一度大きく息を吸い込む。何度も頭をよぎった、チープな妄想だ。ここまで来てしまったのだから、もう、考えることは無意味だ。なにもなさずにこのまま帰ると言う選択肢は、無い。
そろり、と腕を伸ばして、約束通りに壁を叩く。そっと、そっと。夜の闇に、見つからないように。
――こん。
一回。
――こん、こん、こん。
三回、返ってくる。
――こん、こん。
二回、叩く。
――こん。
最後に一回、返事が来た。
千春は、入口に回り、小さなつまみをねじった。それから、以前は無かった、簡素な閂を取り去る。慎重にはずしたつもりが、ガタゴトと意外に大きな音がした。
――焦る。
閂が外れると、間髪入れずに、内側から戸が引かれ、開いた。焦っている間もなさそうだ。見知った顔が暗闇の中から、月明かりの下へぬっと現れた。
「無事ですか?」
「よ。この通り。」
秋桜が片手をあげて笑って見せる。秋桜の笑顔は初めて見た。違和感はない。なんてこと無い、ただの笑顔だな、と間抜けな感想を抱く。