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最後にいつ読んだのかわからない漫画の単行本を眺めていた。話の大筋は記憶にある通りだったが、細部は覚えていないことも多く、いくらかの新鮮味もあった。信親は、一冊読み終えて、机の上に置く。その下には、前の巻がすでに三冊、重ねられていた。些細な思い違いですれ違うようなことは、登場人物たちには起こりえないのだろう。いつだって過去を、理解を共有していて、みんな一緒に物語の終わりへ向かう。
こん、こん。
遠慮がちな、ノックだった。誰が、何のために来たのか、想像は容易い。もうそんな時間か、と椅子から立ち上がって、部屋の入口に向かいながら、はい、と声を上げた。
「信親さん、夕食です。」
奈津子が、少しだけ扉を開けて顔を出した。信親は、内側からドアを引っ張り、奈津子を招く。
「毎回、本当に申し訳ないです。」
 信親は、本当にすまなそうに言うが、奈津子は意にも介していない、という顔でにこにこ笑っている。
「いえいえ。それより、いいニュースがありますよ。」
食事を広げながら、嬉しそうに話す奈津子に、信親は首を傾げる。
「いいニュース。」
ええ、と笑った奈津子の後ろから声がした。
「許可出たんですか。」
「あき。」
お帰り、と信親が声をかけると、おう、と短く返してソファに座った。
「何の許可ですか。」
「明日、お出かけしましょう、私と。気晴らしに。」
え、と言ったきり、信親は奈津子を見つめたまま動かなくなった。しばらくの間の後、なんとか声を出す。何か裏があるような気さえする。でも、奈津子がそれに加担するようには思えない。
「驚きました。」
「嬉しく、ないですか。」
窺うような目線を受けて、信親は笑って見せた。
「もちろん。嬉しいに決まっていますよ。」
奈津子も、よかった、と笑った。秋桜は後ろでうんうんと頷いている。信親は気づく。発端は秋桜なのではないかと。
「あきも?」
いや、と秋桜は首を振った。
「俺は明日も研究室だよ。」
大学生みたいな物言いだな、と思いながら、信親はそっか、とだけ呟いた。秋桜とばらばらに行動することはあまりない。珍しい機会だ。
「奈津子さんは、じいちゃんに信用されているんですね。」
「そうですか。」
 食事の用意が終わって、奈津子も信親の向かいの椅子に腰かけた。
「そうですよ。少なくとも、父さんや母さんじゃ、僕を連れ出せないでしょう。」
連れ出すつもりがあるかどうかは、また別の話ですけどね、と付け加えた。
「それに、とっても大切にされている。」
「それは……どうでしょうね。」
 どうしてそういう発想に至るのだろうかと、奈津子は首をひねる。
「だって、そうじゃなかったら、奈津子さんのために家を建てて側に呼び寄るなんてことしますか。」
奈津子はあいまいに笑った。大切にされている、という発想は今までなかった。きっとそういう理由で呼ばれたのではないと思っている。
「でも、こんなに城崎に縛られたんじゃ、不自由ですよね。」
「信親さんを見ていては、迂闊にそうですね、とは言えません。私なんてまだ自由な方ですよ。」
「でも、ほら、たとえばいつまでも結婚できないじゃないですか。」
奈津子は首を傾げる。つられたように信親も首を傾げる。
「のぶ、何言ってんの?」
秋桜が立ち上がって、信親の目の前にやってきた。
「どういうこと。」
「奈津子さん、結婚してるよ。」
 ぽかん、と口を開けて、秋桜と奈津子を交互に見る。
「……初めて、聞いたけど。」
くすくすと笑う奈津子を見て、信親は慌てる。
「え、あの、でもいま、一人暮らし、ですよね、あの、その。」
「別居中なんですよ。もう十年ぐらい。」
奈津子はなんでもなさそうに言った。知らなかったの、とでも言いたそうだ。
「別居、ですか。」
「そう。でもね、切れないんですよ。いつか、また昔みたいな時間が来るんじゃないかって思ってるんです。」
奈津子はまた、笑った。
切ない、笑顔。
悲しそうな、笑顔。
儚くて、消え入りそうだ。
信親は、精一杯、言った。
「来ると、いいですね。」
奈津子の顔が今までで一番辛そうに歪んだところを、信親は見逃さなかった。

作品名:Delete 作家名:姫咲希乃