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午後、奈津子はふらりと庭に出た。地下にある部屋の書類整理を頼まれていたが、午前中で終えてしまった。埃っぽく、じめじめした暗い場所は、奈津子の気持ちを沈んだものにしたが、何もすることがないよりはずっと良かった。夢中になって作業をして、さっさと済ませてしまった。その後は、自身と信親の昼食の用意と後片付けをして、手持無沙汰になり、外へ出てみることにした。薄暗い場所にいたせいで、曖昧になっていた時間の感覚が急速に戻ってくる。まだ昼過ぎだったことを実感して空を見上げると、爽やかな秋晴れ。最近、日々気温は下がりつつあったが、今日は夏が戻ってきたような気がするほどには、日差しが強い。
足元に目をやれば、レンガで囲まれた花壇で、赤いサルビアがくったりとしおれている。奈津子はしゃがみ込んで、いたわるように手を伸ばした。花壇をはさんで向かい側を、警備員が通過する。
「枯れちゃいましたか?」
奈津子は顔を上げたが、太陽がまぶしく、逆光で、その男の顔がとらえられなかった。いつも、初老の男がいることは知っていたが、彼の声ではなさそうだ。
「しおれていますね。いつも、どなたが手入れしてるんですか?」
「近所の花屋のおばあさんが来てくれてるんです。」
ああ、と奈津子は思わず声が出た。まだ、来てくれているのか。
「前は頻繁に来てくれていたんですが、近頃あまり、姿を見ませんねぇ。」
「おばあさんがいないときは、誰も、何もしていないんですね。」
「そう思います。」
そうですか、と奈津子は頷いた。
今日だけでも、私がやろう。
立ち上がって、警備員に頭を下げた。
「教えてくれて、ありがとうございます。」
いえ、と男が返事するのもろくに構わず、城崎邸の庭から西へ伸びる石畳に沿って歩き始めた。この庭には、庭を一周する円形の道と、正門と玄関をまっすぐにつなぐ道がある。ちょうど空集合の、あの記号のような形をしている。しかし、西の端に一本、庭を外れて茂みに入る道がある。この先にあるのは、倉庫と、離れだ。それから、水道もある。離れの横には、六畳ほどの畑があった。大小さまざまな草が思い思いに伸び放題になっている。辛うじて、畑の区画を示す、小さな切り株を並べたような囲いが、ところどころに残っている。雨風にさらされ、崩れているものや、土に埋まって見えないものもあった。もう、ここが畑だったと知っている者にしか、何物だったのかわかりえない代物へと成り下がっている。
「お前が、生き残ったのか。」
畑の様子を見て、奈津子が笑った。思い思いに自生している緑の一角にあった、その葉に見覚えがある。昔、りんごができると思って買ってもらったアップルミントだった。母はハーブを植えるのを嫌がっていたが、頼み込んで端っこに少しだけ種をまいた。
「りんごは、できないよ。」
幼い自分を思って、奈津子は苦笑した。
倉庫を開ける。色が剥げて、ところどころさびたその引き戸を両手で思いっきり引っ張ると、長い眠りを妨げられたことに不満そうに、ぎぃぎぃ音を立てて少しずつ開いた。じょうろを探すつもりでやってきただが、すぐ目の前にくるくると巻かれたままぶら下がっている青いホースを見つける。
蜜をすってはよく注意された、あの燃えるような赤いサルビアも、もともとは母が植えたものだった、と思いだす。
倉庫のすぐ隣にある水道の蛇口に、ホースの一端を噛ませた。水を流す。びゅるびゅるとホースの中を冷水が駆け抜けるのが分かった。やがて、シャワー型のノズルから、透明な水がきらきらと溢れてくる。目の前に現れた小さな虹を少し眺めてから奈津子は花壇に戻ろうと歩を進めた。
母さんがいたら。
今頃、私たちはどうなっていたのだろう。