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こんこん。
二度叩かれた分厚い木製の扉は、迷惑そうに奈津子を見下ろす。別におまえに会うために来たのではない、と言い返してやりたいような気持になった。相も変わらず、ふてぶてしい扉だ。
キッチンで秋桜と話した後、信親の部屋に食事を届け、やることがあるから食べ終わる頃にまた来ると告げてここへやってきた。
「だれだ。」
木の板の向こう側から、緊張感のある声が返ってきた。理由は知らないが、それは長い付き合いの中でもめったに聞かない声色だった。
「奈津子です。」
ぶっきらぼうに聞こえるように努めた。
「おお。入れ入れ。」
相手には、何の効果もなかったようだ。名前を聞いた途端、媚びるような声になったのは明らかであった。奈津子は肺にたまった熱い空気を一気に吐き出す。入室を許可されたことにも不服そうな扉の、その上に貼り付けられた「社長室」の白いプレートを睨み上げて、扉を開けた。
「失礼します。」
俯きがちに入室して、徐々に目線をあげ、部屋の一番向こう側のデスクに、でんと構える繁親をとらえた。繁親は、にこやかだ。
「奈津子がこの部屋を訪ねてくるのは久しいな。珍しいことだ。」
屈託のない笑み。
変わらないな、と奈津子は思う。部屋の様子も、繁親も。
変わったのは、私だけかもしれない。
「お伺いを立てたいことがありまして。」
繁親は、ほう、と興味深そうに身を乗り出した。
「何でも言ってごらんなさい。」
父親の、こういうところが好きになれないと子供のころから思っていた。優しさに満ちた顔の下に、傲慢な権力者の一面を潜ませていることくらい、知っている。
「明日、信親さんと外出したいのですが」
分かりやすくも、意外、という顔をして、繁親は立ち上がり、奈津子のいる方へゆっくり歩み寄ってきた。しかし、部屋の中央までやってきて立ち止まった。ぴんと伸びた背筋は、齢七十には見えない。しゃんとした、立ち居振る舞いである。
「必要なものがあるならば、買いに行かせる。」
まぁ、そう言うだろう。奈津子はちっとも動じない。
「気晴らしに、ですよ。」
心配しなくてもいい、と繁親は奈津子に微笑んで見せた。
「明後日からは、また元通り、学校に行かせる。急がなくても、あと一日、」
「休日ですよ、明日は。信親さんは学校では忙しいとおっしゃっていました。」
強い言い方にはならないように気を付けていた。それでもやはり、感情が現れてしまう。父親の、この強引なやり方はいつものことだ。いつも、嫌だった。覆す力が欲しかった。
本当に、珍しいことだな、と繁親はぼやく。探るような視線を、奈津子に向けた。奈津子はただ、その視線を跳ね返すように、まっすぐ繁親を見つめる。ふ、と繁親が息をついた。
「奈津子が、行くんだったな。」
「そのつもりです。決して遠くには行きません。」
繁親は自分の顎に手を置いて、何か考えるような素振りを見せた。
「秋桜は?秋桜も行くのか。」
どうなのだろう、と思ったのは奈津子の方だった。秋桜は自分も行くとは言っていない。しかしいつも一緒の二人のことを考えれば連れて行った方がいいのかもしれない。
「そのつもりはありませんでしたが、同行させた方がよければ、」
「必要ない。」
ぴしゃり、と繁親は言い切った。冷たい言い方だった。調子に乗るなよ、という顔をしてから、慌てたように取り繕って、無理やり頬を持ち上げた。
「最近、調整が多い。待機させておいてほしい。」
違和感はあった。しかし奈津子は、ただ、分かりました、と大げさに頷いて見せた。つまり、信親の方は認めたということか。
「外出は、許可してくださるのですね。」
やれやれ、と言った表情で、繁親は首を大きく縦に振った。奈津子にはかなわないよ、という小さい声が聞こえた。
きっと、絶対にダメだと言われるに決まっていると踏んで、言い争いも辞さない覚悟でこの部屋にやってきた奈津子にとっては、それは意外なほどあっさりとした答えだった。思わず、本当にいいのか、と確認したくなるが、やはりダメだと言われても困るので、それ以上口を開くのはやめた。
「用件は、それだけかな。」
「ええ。では、」
「奈津子。」
それは、優しい声だった。とても暖かい、懐かしい、父親の声だ。しかし、有無を言わせない力を秘めている。
早く立ち去ろうと、早々に退室の意思を示したものの、それは簡単にはばまれた。すでに九十度向きを変えた体を、奈津子は無理やり戻す。
「私たちは、親子だ。」
そうだろう、と繁親が念を押してくる。奈津子は、ええ、とだけ短く返事した。だからなんだというのだ。嫌という程身に染みてわかっている事実だというのに。
「そんな風に、他人行儀にふるまうことはないじゃないか。私は、奈津子を、使用人として呼んだのではないのだよ。」
穏やかな、穏やかな、言葉。子供に読み聞かせをする大人の物言いの様だ。
「家族として、呼んだのだから。もっとゆっくりしてくれていいのに。」
鼻から、こぼれるように息が漏れた。
最悪なジョークだ。
笑えるはずがない。嘲笑に決まっている。
「そうですか。」
感情のこもらない声で、奈津子は返事をした。返事をしてあげたことに感謝してほしいぐらいだと思った。
「君は、本当に、城崎のためによくやってくれている。いつだって、貢献してくれた。」
貢献、と声に出してみる。
「そうだよ、奈津子。貢献してくれた。」
どうも、しっくりこない。自分とは縁がない言葉のように感じて、考えてみる。
――犠牲。
そうだ、犠牲だ。
私は、犠牲になった。この部屋で多くの物を失った。私は決して多くの物は望まなかったのに、ここで、この場所で、すべてを取り上げられた。
「そう、言って頂けるなら。」
やっと出た言葉は、自分の物とは思えないほど、からからに乾いた声で発された。頂けるならなんだろうか、と二の句を次げずにいたが、繁親は十分に満足そうであった。繁親は悪くないのだ、と奈津子は知っている。しかし、肝心な時に父親は、奈津子の味方にはなってくれなかった。
「失礼します。」
奈津子は、性急に一礼して、転がるように廊下に出た。
――多くのことは、望まなかったのに。今だって、これからだって、たくさんのことを望むつもりはない。出来るなら、ただ、あの、穏やかな暮らしを。
近いようで遠い、見えているのに届かない、蜃気楼のような現実に辟易する。ふ、と現れたのを見つけては、そのたびに手に入るかもしれないと錯覚して、そのたびに手に入らなかったと落胆して、やはり幻なのだと思い知らされてきた。
奈津子は繁親の部屋の扉に背中を付けたままずるずるとしゃがみ込む。
あの、横柄な扉が、重いよ、と言った気がした。