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「奈津子さん。」
予想外の声に、振り返る。
「おはようございます。」
「おはよう、秋桜さん。」
誰か入ってくる音はしたが、まさか秋桜だったとは。いつも信親の部屋にいるものだろうと勝手に思っていたがそうではないらしく、しかもどこか出かける風で、よそ行き用の服装をしている。
「のぶの朝食ですか。」
いくつかの疑問を口にしようとしたら、先に聞かれてしまって、奈津子はただ頷いた。キッチンはとても静かで、冷蔵庫だけが低くうなっている。時折、ガラガラ、と大きな音が響く。自動製氷の音だ。
いつも、朝食だけは冬美が作ったものをみんなで一緒に食べる。小さいころからの習慣だった。夕食は、お手伝いさんが作って部屋に届けてもらい、各自で食べていた。
「お仕事中に、すみません。」
秋桜は、申し訳なさそうに眉を寄せた。こんな顔もできるのかと、内心、奈津子は感心する。
「いえ、何か御用ですか。」
奈津子は手元のタオルで手を拭いて、秋桜に向き直った。秋桜は、頷く。それからほんの一瞬気まずそうに奈津子から目を逸らした。
奈津子は驚く。ああ、これは、と思った。
「お願いがあります。」
そうだろう。それは、頼みごとがあるときの信親の仕草と同じだ。
「お願い。」
確かめるように繰り返す。秋桜から頼みごとをされる日が来るとは思わなかった。お願いとは、いったいどんなことだろうか、と考えてみる。しかし、何も想像できない。というよりも、秋桜にできないで、奈津子にできることが一体なんなのか分からない。
「明日、のぶを外出させてやって欲しいんです。どこでもいいから。」
それは確かに、秋桜にはできないことだ、と納得はしつつも、これはこれで意外なことだった。てっきり、秋桜は繁親に従順なのだと思っていた。黙っていうことを聞く、お利口さんなのかと思っていたのに、こんなことを言い出すなんて、きっと繁親も予想できないのではなかろうか。
「秋桜さんのお願いは、私も叶えてあげたいのですが、明日には兄さんとお義姉さんが帰ってくるそうですから、二人に頼まれてはどうですか。」
奈津子はやんわりと言った。近しい親類と言えたところで、他人の家庭事情にそうずけずけ介入していいものかと考えたためだ。出過ぎた真似はしたくない。秋桜は首を横に振る。
「あの二人はだめです。父さんはきっとすぐ仕事に戻るし、母さんがじいちゃんに逆らうわけがありません。のぶのことより保身が先です。」
ああ。奈津子は短い声を上げる。なるほど、という意味もあったし、がっかりした、という意味もあった。そうかもしれない、という予想はあった。でも、そうでなければいい、と思っていた。
奈津子が一番心配していた、信親が跡取りとしてしか大切に扱われない家庭。それを聞いては、居ても立ってもいられなかった。自分ができることは何でもしてやろう、とさえ思う。
「聞いてもらえるかはわかりませんが、おじい様には私から話をしてみます。さすがに、無許可で連れ出すことはできません。」
秋桜は頭を下げた。
「ありがとうございます。」
「いえ、私も、秋桜さんと同じ気持ちでしたから。」
気持ち、と秋桜が不思議そうに呟く。奈津子も不思議そうに首を傾げた。そうだ。今、不思議なことが起こっている。
それっきり、何も言わない秋桜に微笑みかけて、奈津子は用意していた皿をワゴンに並べ始めた。
かちゃり、かちゃり。
分かっているけれど、分からない。
「奈津子さん。」
最後の皿を乗せたのを見て、呼びかけた。奈津子は声をあげず、秋桜を見る。秋桜は奈津子と目が合うと、俯いた。ぽそり、と独り言のような小さな声で話し始める。その様子から、言い出しにくいことであるのは明白で、まるで、いたずらをした子どもが自らの罪を告白するようだった。
「本当は、俺がなんとかしたいんです。でも、なんていうか、その。」
秋桜はぎゅうっと右手を握りしめている。
不思議なことが起こっている。
目の前にいるのはたった一人の少年だ。うまく気持ちを言葉にできない、どこにでもいる少年に他ならない。
奈津子は、秋桜に近づき、強く握られた拳に自らの手を添えた。
「悔しい、っていうのよ。」
秋桜は、信じられない、という顔をした。それから、泣き出しそうに瞳を揺らして、ゆっくり、く、や、し、いと発音した。