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変わったことは何も起こらなかったなぁ、と秋桜は一日を振り返る。
ほっとしたような、刺激が足りなかったような、何とも言えない一日が、もう間もなく終わろうとしている。
一番後ろの窓際のこの席は、昼間に差し込む直射日光がとてもまぶしかった。放課後は、あんなに居心地がいいんだけど、と前日を思い出す。
信親の周りはずいぶんと騒がしい。
とにかく人が良すぎる。
いつかは、言ってやらなければなるまい。
きーん、こーん
かーん、こーん
きりーつ
れーい
終了。
頭をあげるのと同時に教室の外へ駆け出す者がいるのはどこのクラスも同じようだ。いっそ、一日の最後の挨拶だけ、よーい、どんにしてしまえばよい気もする。
芸術の授業は自習だった。机の上に散らばった筆記用具と一度も開かなかった教科書をまとめて、机の横の鞄を手にとった。鞄の中に、次々と学用品を放り込んで、次は生徒会室にいく、と確認する。
その前に、トイレにでも入って、一旦のぶの部屋のノートパソコンに通信するか。
今頃、何してるんだろう。
鞄を肩にかけて、椅子を机の下に押し込んだ。ぎいい、椅子の足が床をこする音がする。
「のーぶちかっ!」
いざ歩き始めようというところで、横から袖を引っ張られた。
首を向ける。名前と顔は一致している。いつも、信親は彼のことを直哉と呼んでいる。直哉は生徒会の役員だが、秋桜とはクラスが違うため、それ以上の情報はない。
「生徒会室、行くだろ。」
「うん、行くよ。」
「じゃあ、一緒に行こうぜ。」
別段、断る理由もない。
予定と違うが、大して差し支えはない。
「そうだね。」
秋桜は、信親がいつもそうするように、小首を傾げて微笑んだ。秋桜より十センチは背の低い直哉が、背伸びをして顔を近づけてくる。少しだけ眉をひそめて、不信感を漂わせている。
「信親さ、なんか今日いつもと違わない?」
「そうかな、いつもと同じなんだけど。」
秋桜は、自分がうまく信親を演じ切れていないはずがないと思った。だって、自分には、蓄積された膨大な信親のデータがある。いつもと同じだ。これが、いつもの信親だ。
直哉は、秋桜の顔を覗き込むのをやめたあとも、やはり腑に落ちない、という顔をした。
「ふぅん。」
秋桜の方もこれ以上掘り下げるつもりはないのでそのままにしておく。万が一にでも、ばれてしまったら今日一日がすべて無駄になってしまう。
ざわざわと騒がしい教室。教室の中に、こんなに生徒が詰まっていただろうかと秋桜は不思議に思った。抜け出すように廊下に出ると、そこにもやはり生徒が入り乱れて我先にとどこかへ向かっている。自分たちも、まもなくこの大衆の意思に飲み込まれてしまう。
「昨日、一人だったんだって?」
秋桜を先導するように、一歩前を行く直哉が聞いた。騒音の中で会話するのは、聞き取りにくいだろうと、声を大きくして、そうだよ、と返事した。
「皐月が言ってたんだ。みんな信親に頼りすぎだって。いや、お前が言うなって感じじゃん?」
直哉は立ち止まって秋桜の方を向くと歯を見せて笑った。秋桜は愛想笑いをする。これは、信親の得意技。愛想笑いを覚えた時は繁親がおなかを抱えて笑ったのを覚えている。
「悪かったよ。でも他のみんなも信親に一斉に押し付けて休むなんて思わなかったんだ。それに、なんで黙ってたのさ。きついに決まってる。断ったっていいんだよ。」
本当だよ、とは言わない。
誰もいなかった結果、秋桜が介入して早く終わったのだと信親は言っていた。結果論としてはいい方向に進んだのではないか、と思う。
「大丈夫。」
秋桜は優しく直哉に言った。誰も責めたりはしない。そして、何でもない事のようにこう言えばよい。
「昨日の仕事はもう済ませたし、みんな用事があったんだから仕方ないよ。」
直哉は目を大きく見開いて、動きを止めた。往来の真ん中で足を止めたものだから、秋桜は直哉にぶつかり、さらに後ろの誰かに靴のかかとを踏まれてしまった。
「終わったの?あれを、一人で、終らせたのかよ、本当に。」
一人、というのは厳密には正しくない。しかし、伏せておくことにした。生徒会室は、本当は部外者が立ち入り禁止の原則があるらしい。信親を貶める可能性のあることは言えない。
「うん、うん。心配してくれてありがとう。」
「やっぱり、信親、今日変じゃね?」
のぶはいつも変だよ。
喉元までせりあがり、もう少しで口から飛び出しそうになったが、ぐぐっと飲み込んで、そうかな、とだけ曖昧に笑った。
気づけばもう、生徒会室の前だ。
白い引き戸を開ける。室内の視線が一斉に入口に向けられると、直哉が珍しい、とつぶやいた。
「みんないる。」
本棚の前にいた皐月が眉を吊り上げながらこちらに向かって歩いてくると、直哉の目の前にびしっと人差し指を立てた。
「当たり前でしょ。昨日のぶくん一人にしておいて、今日も来ないなんて、そんなことするわけないじゃない。」
直哉にかみつくように言うと、直哉を引っ張ってまた本棚の前に戻った。秋桜は、信親がよくやるように、くすっと笑いをこぼす。
これが、秋桜の知らなかった信親の日常なのか。
――しばらくは、人がいいのも許してやろう。
生徒会室に二台ある共有パソコンの内、いつも信親が使っている方に椅子を運んで腰かけた。床に荷物を置き、昨日、自分がコピーしたフラッシュメモリを取り出す。パソコンの電源に手を伸ばした、そのとき。
「のぶくん、今日はもう帰っていいよ。」
皐月が部屋の一番向こう側から、叫ぶように声をかけてきた。
「え。」
皐月の方に顔を向けると、こっちに駆け寄ってくる。
「お疲れさま。今日はもう終わり、ね。帰って、帰って。のぶくんの分も、昨日の代わりに私たちでするから。」
皐月は床に置いた鞄を持ち上げて、ぐいぐいと秋桜に押し付けた。でも、と言いかけた口に、棒のついた丸い飴を押し込んでくる。
「むぐ。」
そのまま出入り口に向かって背中を押され、追い出された。廊下に出されて、振り返ると皐月が笑顔で手を振りながら目の前でぴしゃりと戸を閉める。しばらくその場でどうした物かと思案するが、おとなしく帰ることに決めた。皐月は何と言っても聞く耳を持たないだろう。口の中に入れられた、溶けることもない飴を取出し、くるくると眺めてから近くのゴミ箱に放り投げた。
「俺が今日学校に来た意味が果たされなかった。」
秋桜は、信親の役に立たなかった。
どんな顔をして帰ればいいかわからないとき、とはこういうことか。
秋桜は一つ学習する。