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九月十一日(金)
目が覚めると、アラームが鳴る少し前だった。遮光カーテンのわずかな隙間から太陽の光が無遠慮に割り込んでくる。信親は、せめてもの抵抗に、ごろりと寝返りを打った。
金色の夕日の河川敷、土手に腰かけて、いつもおしゃべりしていた男の子の夢を見た。
時々、彼を夢に見るが、顔も名も覚えていない。いつもそうだが、今日もやはり、その姿も、表情も強烈な逆光で、見えなかった。
ピリリリリリリリ。
六時三十分。
アラームが鳴り出す。同時に、秋桜のスリープモードが解除される。
「おはよう。」
「おはよう。奈津子さん、六時四十五分にご飯もってくるって。」
「はーい。」
秋桜宛にメールかチャットが、奈津子から届いていたようだ。信親はのっそりとベッドから起き出すと大きく伸びをして、寝間着を脱ぎ始める。ハンガーに掛けられてぶら下がっている、着替えのシャツに手を伸ばしたとき、秋桜の手が後ろから延びてきた。
「今日は、それは着ないでしょ。」
秋桜が笑っている。
ああそういえばそうだったな、と信親は頭をかく。
最近、秋桜は笑うことを覚えた。いや、前から笑っていたはずなのだが、信親は、近頃急に秋桜が人間らしさを増してきたように思っていた。この頃の秋桜は、何か違う。度重なるアップデートが行われているのだから、プログラムが更新されれば改良もされるかもしれない。
思い至って、信親は切なくなった。
秋桜は、昨日着ていた制服のままだったが、自分のブレザーとセーターを脱いだ。果たして、どこに脱ぐ必要があるのかと、信親は首を傾げる。
「貸してよ。セーターは色違うし、ブレザーはほら、組章が。」
「あきって結構、気が利くんだね。」
ふむふむ、と首を上下に振って、信親は自身の制服を差し出した。秋桜は、信親から制服を受け取りながら、また笑った。まるで、機嫌がいいように見える。秋桜に機嫌の良し悪しがあるかは別として。
「いまさら?」
信親は、クローゼットから適当な私服を引っ張り出している。最後にいつ、私服で出かけたか考えてみる。ハンガーごと取り出したトレーナーから、ずっと仕舞われていた洋服からする、あの、独特の香りがして、信親は思い出すことを諦めた。
「あき、ピアスは僕の机の上だよ。」
「今日はしない。」
「なんで。今日は通信も頻繁にすると思うし、電池食うよ。」
秋桜のピアスは、蓄電できる仕組みで、予備のバッテリーになっている。
「だって、のぶはピアスしないから。」
「そうだけど、髪下したらバレないんだから、していきなよ。」
ぶかぶかのグレーのトレーナーに首を通しながら、信親が言った。
「ねぇ、あれ、まだある?音楽プレーヤーとイヤホン型の充電器。」
ああ、と信親は声を上げる。秋桜が中学生まで使っていたモバイルチャージャーだった。信親は、自分の机の引き出しを開けて、それを取り出した。見てくれは、何の変哲もない音楽プレーヤーとイヤホンだが、音楽は聞けない。秋桜専用の充電器になっているのだ。
「あったけど、ずっと使ってないから残量が無いや。とりあえず、学校行くまで充電しとく。」
「わかった。」
信親が、コンセントにそれをつないだとき、部屋の扉が二度叩かれた。
「ヤバいかな。」
秋桜が自分の前髪を摘みあげて、信親に聞く。
「奈津子さんだったらきっと大丈夫だと思うんだけど……」
「おはようございます、信親さん、秋桜さん。奈津子です。」
扉の向こうから、よく通る声がした。
「どうぞ。」
信親が返事をして、秋桜が扉を開いた。
「おはようございます、奈津子さん。」
「あら。」
奈津子は二人の姿をきょろきょろと見比べて、口元に手を当てると、空気をくすぐるような笑い声をあげた。
「信親さんが二人いるわ。」
奈津子は一人分の食事の乗ったカートを押しながら部屋の中へ進み、秋桜はゆっくり扉を閉じた。
「もしかして、外出禁止なんですか。」
「ええ。」
「それで、秋桜さんがこっそり学校へ行くのね。」
「お見通しですね。」
くすくす。
ばつが悪そうに、信親が視線を落とした。
「ふふ。それじゃあ私は、抜け道を教えてあげるわ。」
「え。」
驚いて顔を上げると、奈津子は微笑みながら口元に人差し指をまっすぐ立てている。
「秋桜さん、一階までは私と一緒に行きましょう。キッチンの隣に裏口があるから、そこからこっそり出してあげる。裏口から出たら、飛び石が続いているから、その通りに歩いて。草が伸び放題で、大変な道だけど。石が終われば私の家の裏に出るの。そのまま庭を突っ切れば道路に出るわ。いつもの通学路と一本違うだけだから、東に向かって歩いていけば、知ってる場所につくはずよ。」
『記録しました』
秋桜が二回頷いた。奈津子は少し驚いたように目を見開いてから、ふんわりとほほ笑む。信親はワゴンからテーブルにプレートを運び、椅子に腰かけた。手を合わせて、小さくいただきます、とつぶやく。
奈津子の家は、城崎邸と背中合わせで建っている。どういう経緯があったか知らないが、どこか別の場所で暮らしていた奈津子を繁親が呼び戻した。わざわざ家を建て直し、十年ほど前にそこに住むようにさせたらしい。その家に、奈津子は一人で暮らしている。
信親が食事をしている間、秋桜は学校に持っていくものを入念にチェックしていた。食事が終わるまで外にいると提案した奈津子を信親が引き留めて、好きなところに座るように勧めた。結果、彼女は黒いソファを選び、秋桜を見ていたり、部屋を見渡してみたり、時々、信親に話しかけたりしてくる。
『テスト。テスト。音声チェック。テスト。』
「うわ。」
持ち物をまとめ終えたらしい秋桜が、信親の声を再現した。突然のことに驚いた信親は、びくっと背筋を伸ばすと音源の方を、きっ、と睨んでみる。
「やるならそう言ってよ。」
「こんなもんでしょ、どう。」
「僕の声のままでしゃべらないでよ!」
奈津子は両手で小さく拍手をした。
「完璧ですね、秋桜さん。」
秋桜は得意げに鼻の下を人差し指でこすって見せた。
そんな古い表現を、一体どこで覚えてきたのだろう。
信親は、食べ終わった食器を静かにまとめて、ワゴンの上に乗せる。それを合図に、奈津子が、すっと立ち上がり、秋桜がスクールバッグを肩に乗せた。
「秋桜さんを見送ったら、お茶持ってきますから。」
奈津子がワゴンに手をかける。信親は頷いてから立ち上がって、奈津子の前を横切り、部屋のドアを開けてやった。二人が連れ立ってやってくる。
「じゃあ、行ってくるよ。」
「うん、気を付けてね。あ、充電器!」
秋桜はポケットから青い、小さな板を取り出す。
「持った、持った。んじゃな。」
小さく片手をあげて、廊下の向こうへ遠ざかっていく背中が、もう手に届かないもののような気がする。信親は、唐突に、孤独が怪物のようにやってきたのではないかと身震いした。さっさとドアを閉めて、怪物は入れないようにする。
秋桜のいない、非日常が始まる。