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アノニマスアイデンティティ

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「大丈夫でしょ、たぶん。仕事はやりきるタイプなんで」
「契約社員は自分から願い出たって?」
「ええ。彼から申し出てくれて助かりました。ま、遅かれ早かれ殆どが契約か委託になるんですけど」
「パーソナルにエゴ上手な社員が会社を導く、だっけ? 今年の会社のスローガン。エコじゃなくてエゴかよって。ああ、今回のプロジェクト、もっと予算欲しいんだが、他から回してもらえないかなあ。どこか心当たりない?」
 課長はノートパソコンを閉じて脇に抱え、颯爽とスマートフォンを取り出す。
「それなら、縮小予定の部門があるんですよ。また本人から言ってくれればこちらは楽なんですけど。とりあえず、前倒しできるか上に相談してみますか……」

 自席に戻った啓次はあらためて仕様書に目を通そうとした。しかし先ほどの打ち合わせから動悸がおさまらない。外出時用のノートパソコンの充電状態を確かめてから脇に抱えると、逃げるように休憩室へと駆け込んだ。
 休憩室では男が一人だけ。端のほうで仰向けぎみにソファーにもたれている。顔にかぶせるように新聞を掲げて読んでいるので顔は見えない。
『貨物船、瀬戸大橋橋脚に衝突大破』
 男が読んでいる夕刊の見出し。前部が大破した、橋脚に突っ込んだままの船の写真に眼がとまり、啓次は無線LANの状態を確かめてから、その話題を検索し始めた。
 既に啓次の指先が新聞のインクで汚れなくなってから久しい。何年か前までは、新聞を隅から隅まで読む両親と同じく、熱心に読んでいたものだが。
 生きているごとく時々刻々と最新の情報に入れ替わるネット上の情報。比べて新聞は、もはや昨日という過去の情報群の糟粕、化石としか思えない。
 ニュースサイトを見ると、どうやら今朝方、濃霧の中で衝突していたらしい。貨物船、特に全長300メートルもあるような超大型船には興味があったし、瀬戸大橋も渡ったことがあるので、ニュースサイトの記事では物足りずゐちゃんねるを見た。と、かつてこの船にエンジンの修理で乗り込んだことがあるという人物と、GPSに詳しいという人物がいろいろ書き込み議論している。GPSの運用方法と故障の可能性、国民性を含めた乗組員の質、法的な船長の責任、瀬戸内海の潮の流れなどと話を展開させている。修理した人が撮ったその船内のトイレの写真が掲載されている。便器がまっ茶になっているままだ。まるで掃除された形跡がない。『これだけ汚くしたまま運航するような連中だから事故ったんじゃね』と書き込まれていた。
 携帯電話の音。男が話しながら啓次の後ろを通って休憩室を出て行く。
 一人になった啓次はそのスレッドを読み続ける。もっと啓示的なコメントか、腹を抱えるようなコメントが見たくて、他のスレッドも漁り続ける。時折自分も書き込む。すかさず自分よりも遥かに頭の切れる返答があって触発される。クリック音とキーボードを叩く音だけが休憩室に響く。
「おつかれさまです。打ち合わせ終わりました?」
 女性の声。振り向くと水谷鈴香だった。
「ちょっと相談があるんですが、今日は忙しいですか?」
 いつも通りの控えめな化粧ににこやかな笑顔。
「ああいや大丈夫だけど……」
 啓次は鈴香に尋ねたいことがあった。あの蛹のことだ。社内で話すには相応しくなかったので、ずっと訊けないままだった。丁度いいから今日尋ねてしまおうかと考えていると、彼女は何か勘違いしたらしい。
「あ、でも無理しなくていいんですが」
「いや、ごめん大丈夫だよ、でも一時間だけ残業するけどいいかな」
「ありがとうございます」
 鈴香の表情。口元から笑みが広がり、はかったようなタイミングで小首をかしげ、黒髪をさらりと揺らしてみせる。
 その仕草は、ついさっきまでの背筋を伸ばした真直ぐな姿勢とは違う。それは、啓次が敬遠している、モニターに映る彼女を鮮やかに想わせた。

 啓次と鈴香が行ったのは、勤めているビルに程近い居酒屋。店内は湾岸エリアに相応しいお洒落なつくり。やや高くつくが、彼女から訊き出したいことがある啓次は奮発した。
 鈴香の部署は、飲食店やグルメ通販サイトなど、食べ物を売っているあらゆる形態の店の口コミが投稿できるサイトの運営をしている。数人のアルバイトの管理が彼女の仕事だった。そのアルバイトの仕事は、投稿された口コミ内容の統計を取ったり、不適切なものを削除するなど。また毎月あるテーマに沿った特集記事の執筆も含まれていた。
 啓次はこのサイトの構築メンバーの一人であり、運営を引き継ぐまでの期間、彼女とともに仕事をしたことがある。
 ビールを呑みながら話し始めてみれば、啓次は鈴香の相談相手ではなく、単なる愚痴の聞き役にすぎなかった。実は、アルバイトにはサクラの仕事も含まれていて、投稿が少ない店舗の口コミを、利用したこともないのに書いたりしている。アルバイトの一人がそれをブログに暴露したり、良いことしか書かないことになっている特集記事に含みを持たせるなどして、アルバイトの管理が大変になっているということだった。
 愚痴り足ることない彼女の見幕に、啓次は曖昧にうなずくしかない。
「もうそんなのどこでもやってることじゃないの。みんな良い様に見せようとしてるんだから、ねえ? 政治家だって経営者だって、テレビカメラが向けられているときの姿は全然本当の姿じゃないでしょ? ネットの口コミだってテレビカメラと一緒なのよ! だけどそれを暴露しちゃだめなのよ! ほんとあったまきちゃう」
 既に充分酔っていて、啓次を三白の眼で見据えたり、あの店員態度悪いんだよと悪態ついたり、視線が定まらない。彼女は呑むと大抵こうなのだ。啓次はまたかと困惑しつつ鈴香を見つめる。
 ナチュラルメイクの彼女。心なしか、先ほど休憩室で見たときよりも少し濃くなっているようだ。
 ファウンデーション、頬紅、アイシャドウ、口紅。
 彼女の顔にそれぞれの色を塗り重ねる……と次第に見えてくるのは、またもやモニターに映る彼女。あの、ぎこちなく"しな"を作っている黒の下着姿の彼女。

 半年前、まだ鈴香と仕事をしていたとき、最初に誘ったのは啓次だった。
 以前は、姿を見かけても、ちょっと可愛い娘だなと思う程度だった。その後、ともに仕事するようになって知った彼女の性格はとにかく明るく、よく喋るということ。
 仕事上必要なため、鈴香は啓次に質問し、頼ってくる。交わす言葉は自然と多くなった。が、それだけではなかった。忘年会で鈴香は隣の席に座ってきて、「わたし彼氏いないんです」と言ってくる。まるで自分にアピールしているように聞こえた。この日以降、休憩中のなんでもない会話であっても、彼女がプライベートで懇意に話し掛けてくると思えてならない。逆にそうではないと否定するのが、野暮であるかのよう。
 そんな思いが積もり続けた引継ぎも最終日。明日以降彼女と顔を合わす機会が減ってしまうことばかりを考え続けていた。
 夕方に鈴香が「おなかすいたよー、うけるハハ」と一言漏らしたとき、啓次は瞬時に決断した。
「じゃあ、今晩なにか奢るよ」