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アノニマスアイデンティティ

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「…………」
「これじゃ、ゆっくり旅行も楽しめないわ。とにかくしゅうちゃんの件、頼んだから」
 馬鹿にされたと思ったのか、スリッパを脱いで手に持ち、床を踏み鳴らしながら部屋を出て行く。
「いまの状態で結婚できるわけないだろ。でも誰が真似するもんか。あんなイナゴ、いや、飛蝗みたいにあちこちで脱皮し続けるような生き方なんかするつもりは更々ない。俺は俺のやり方で成長するんだ」
 啓次は、珍しく怒った母の後姿を眼で追って呟いたが、すかさず気付いたようにモニターに視線を戻した。だが、何時の間にか放送は終わっていた。
「しまった!」
 啓次は部屋を躍り出て廊下を一目散に走り抜けた。後ろで、「ギャン!」というペコの悲鳴を聞いたような気がしたが、おかまいなしに玄関で靴を引っ掛けると、階段を駆け降りビルの外に飛び出た。
 住宅街の方角へ走り出したが、すぐに息が切れて立ち止まった。眼前に広がる道路の果てには、兄もあの少女の姿も当然のように見えない。
 ぜえぜえと息を吐く。涼しい風が吹き渡るなか、透明な水色の空を見上げれば、遥か高層に薄く白い雲。まるで波打った水面が陽の光を受けて輝いているかのよう。
 底に沈んでしまった幼虫は、脱皮も蛹化もできずに獰猛なブラックバスの餌なのか。
 白く光る水面が、啓次の眼に眩しく映った。

   *

「このゴーストタウンとなった我々のヴァーチャルタウンを、再び活性化させるにはどうすればいいか。我が企業グループから、もうさんざん突き上げられていました。喧々囂々の会議の結果、実名登録を原則として地方自治体との連携も検討することにしました。いまやテレビゲームでも、オンラインゲームを実名登録して楽しもうという時代ですから。ヨーロッパでは、ネット自体の利用を、実名に限って可能にできないかという議論が、かなり前から真剣に行われています。アノニマス排除の動きは加速するでしょう」
「はあ……それからこの機能は?」
「これはHAIKAI機能です。つまり徘徊です。ログインしていなくても、自動でキャラクターがヴァーチャルタウンを徘徊して、ログアウト時のニュースなどを集めてまわるのです。いわば自動検索ですね。もうこれでログインする人が少なくても、ゴーストタウンに見えないって論理ですな。通常の検索は、条件に合致するものを一覧として表示しますが、これはもっと感覚的だというのが特長です。仕事中や就寝中でもあらかじめ設定した道順、またはランダムに徘徊することで偶然の出会いが生まれます。出会った人の記録も当然あとから見られます。あいまい検索みたいなものですが、見かけ上タウンを歩く人が圧倒的に増えるし、この感覚的な出会いが好ましく思う人も多いはずです。各キャラクターの自己紹介ビデオは無料ですが、それ以上のコンテンツを見るにはポイントが必要です」
「それってつまり出会い系機能を強化するということですよね」
「いや、その言葉は使わないでください」
「…………」
「このシステムではエンカウンターと呼びます。そのあたりは自治体との絡みもあるので、おおっぴらにはできませんが、手っ取り早くネットでアクセス数を伸ばすには出会い……ではなくエンカウンター機能をないがしろにするわけにはいきません。ネット上での限られたアクセス数を奪い取り、広告を眼にする機会を多くする。激戦のソーシャルネットで生き残るには、堅実な武装と大胆な攻撃が一番ですよ」
「(どうせ今回企画したものも一時的に流行って、すぐにゴーストタウン化するのだろう。ソーシャルネットの攻防はいつまで続くんだ)」
 打ち合わせスペースでプロジェクトマネージャーと課長の説明を聞く啓次。眼の前に移り気な飛蝗が居場所を求めて飛び回る姿がちらついて……。
「ああ、ところで、ツブヤイターとフェイスロックとの連携機能も持たせます。取り込めるものは何でも取り込むつもりでやらないと駄目ですからね」
 啓次はどちらもやっていない。フェイスロックは実名登録なので、はなからするつもりはない。ツブヤイターは二年ほど前にやったが、自分が呟き続けた内容に何一つ感動を見いだせなくて三ヶ月でやめていた。感動とかそういうものでないことは得心しているが……。
 ブログも含め、継続的にすべての情報が残ってしまうネットサービスに啓次は身の震える思いがする。仮にブログを書いたとしても、翌日には後悔して消すに違いない。毎日書く作業と消す作業、掘った穴を埋める作業を毎日繰り返しているようなもの。しかも他に誰がコピーして、いつのまにやら拡散しているかわからない。
 ソクラテスは文字で記録を残すことに否定的だったという。憶えるという人間性の退歩だからと。本質は異なっており、またその後の歴史は言わずもがなだが、啓次は表面上であってもソクラテスの言葉に縋っていた。
「(そもそも、ソーシャルネットをID固定で使い続けることの意味って何だ? 自分という肉体に雁字搦めにされる実生活。そして自分というキャラを肉体の移動先々で演じているのに、ネット上でも自ら望んでIDに束縛される道を選択するなんて。真の自由はそこに? そんな馬鹿な。でも、自分という存在に自信があるなら話は別……)」
「で、原口啓次氏。君にはセキュリティ部分を担当してもらいたい。検証用のテストサーバーを構築してくれるかな。他の要員はこれから決まるんだが、まずは原口氏にはシステムの入り口であるセキュリティ設計をお願いする」
 上の空だった。突然プロジェクトマネージャーにフルネームで呼ばれたことで、啓次は頭と頬にどっと血が集まるのがわかった。
「え、とそうですね。まだ仕様書全部に目を通していないので、不明点もあるかもしれません……セキュリティはわたし一人ですか?」
 向かいに座っているプロジェクトマネージャーのノートパソコン。その開いた上面に毛沢東のステッカー。にこやかな笑顔で啓次を見つめる。この毛沢東は、文革前だろうか、それとも文革後なのだろうか。
「この位なら彼に任せられるんだよね」プロジェクトマネージャーが隣席の課長に尋ねながら目配せする。
「できるとおもいます。仕様書も厚くないからすぐ読めるでしょ。あと、部内全員にテストデータとして実名登録してもらうから、原口氏もフェイスロックの登録しておいて。もうした?……まだだよね。だからテスト機とはいえセキュリティは本番同様万全に。とりあえず仕様書の不明点は今日中にあげてもらえるかな。なにもなければ明日からの予定表作りに取り掛かって。じゃよろしくね、原口氏」
 軽い眩暈。啓次は二人が立ち上がっても脚に力が入らず動けない。遠くを見れば少しは眩暈を抑えられるかと窓外を見た。
 すでに夕方となった景色。紅い水平線と紫の雲、そしてなぜか、流したオレンジジュースを連想させる層を挟んで、顎を上げていくとうすい水色と深まりゆく群青がグラデーションをなすなか、白い月がひっそりと浮かんでいる。昨日よりも少し膨らんだ月。そのまるみを眼でなぞって……。

 プロジェクトマネージャーと課長は並んで通路を歩きはじめた。二人とも開いたノートパソコンを胸の前に持ちながら。月を見る啓次を見遣ってからプロジェクトマネージャーが口を開いた。
「彼にできるの?」