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アノニマスアイデンティティ

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 近くにいた数人の女性社員の視線が集まった。啓次は気にせず彼女の返事を待つ。これまでの親しさから充分勝算はあったのだ。しかし、彼女は微笑とともに断った。
「(女特有の焦らしだな)」
 勝算は揺るがず、追撃の言葉をかぶせる。
「好きなものなんでもいいよ」
「またまたあ、駄目ですよ」
 突然気になり始めた女性社員たちの視線。啓次から次の言葉が出ることはなかった。
 意気消沈し、仕事が終わるまでずっと伏目がち。だが帰る準備をし始めたとき、鈴香がすっと寄って来てこう言った。
「おなかすいたので、やっぱり奢ってください」

 このとき、鈴香が行きたいと言った店は、気軽に入れることで女性に人気があるチェーン系のパスタ専門レストラン。
 レストラン前で啓次は内心躊躇した。よりによって、かつて付き合っていた二人の女性、ともにキャバクラ嬢だった彼女らが好きな店だったから。しかも、男女の交際とは呼べぬ付き合い……。
――自身の価値判断を女性に委ねること。それも、水商売や風俗店のような多くの男に接している女性から選ばれること。これこそが男として最も価値あることだ――
 この考えに取り憑かれ、キャバクラに通った時期が啓次にあった。そして付き合うことになった二人のキャバクラ嬢。一人目は買い物と食事のみに付き合わされ、すべての支払いを啓次がする関係に嫌気がさして三か月で別れた。二人目はセクシーキャバクラに勤めていた嬢だった。
「キャバやめたいから生活費頂戴」
 甘くねだられた。前回の反省もあり、"甲斐性のある男が真に価値ある男だ"と信じたのは一年余り。嬢がまったく働く様子を見せず、啓次の貯金が底をついた途端にお互い熱が醒めた。
 もう決してキャバクラ嬢や風俗嬢といった関係の女とは付き合わない。同じ轍は決して踏まない。次は必ずごく普通の仕事をしている女性にする。
 この堅い決心が、水谷鈴香で結実するかもしれない……。
 無難に仕事の会話をし、酒と料理が届けられ、皿の上のスパゲッティが半分になり、三杯目のグラスワインを呑んでいるときだった。鈴香が言った言葉に啓次の表情が曇る。
「わたし、原口さんに誘われる資格がない女ですよ。だから断ったんです」
 それ以上話す素振りを見せない。
 啓次の頭に浮かぶのは、過去の記憶に根ざした嫌な予感だけ。
「いいよ、気にしないから」
 鈴香は酔いで紅くなった頬を少し持ち上げ、強いて笑顔を作ろうとしながら、早口に言う。
「チャトレしてるんですよ」
 啓次はよく聞き取れなくて、少し間抜けな態で聞き返した。
「え? 何?」
「チ ャ ッ ト レ デ ィ 、です。知りませんか?」
 豹変した彼女の表情。"うぶな男なのね"とからかうように薄ら笑う。
 知らないわけではなかった。だが、覗き見と呼ばれている無料の数十秒間見たことが数度あるだけ。モニター越しの女性にお金を払う気にはなれない。キャバクラには大金をつぎ込んだとしても。
「……知ってるよ」
「あ、知ってるんだ」
 今度は、"やっぱり男ね"と小馬鹿にした薄ら笑い。そして酒が入っているせいか、訊いてもいないのに、饒舌に次々と話し始めた。
 ブラジャーを取ると褒めてくれる客。アダルトな器具の使い方をこと細やかに要求してくる客。嫌なこと、例えばアナルを見せろと要求してくる客。
 特に声を低めるわけでもなく、堂々と話し続ける。啓次は隣のテーブルが気になった。三十代くらいの女性が一人座っていて、スパゲッティを啜っていた。おそらく聞こえているのだろうが、まったく顔色を変えず食べ続けている……。
 その後、啓次は教えられたサイトでチャットをしている彼女を見た。堂々と顔を出して、妖艶を気取ろうと精一杯化粧と表情を作っていた。
 下着姿に興奮したのは最初だけ。よく見れば、モニターの向こうの彼女はたいして魅力的ではなかった。豊かな胸を強調するようなポーズばかりとるが、そうすればするほど眼がいく思ったよりもたるんだおなか、それも服を着ているときには想像も出来ないほどの。そして、興醒めするわざとらしい"しな"。濃い化粧もどこか的外れだった。
 何度か無料の覗き見時間で見た。見れば見るほど、彼女が可哀想になった。
 鈴香は自身のブログも教えてきたが、読んでぶっ飛ぶ。ブログを始めた二年前からの、行きずりの関係も含め、複数の男との性交渉の内容がすべてこと細やかに描写されているのだ。妙に昂ぶって眠れず、一晩ですべて読み切ってしまう。
「不憫な女だ」
 啓次はこれらを見たあと、鈴香に優しく接し始めた。すると彼女は、特に用がなくても啓次に話しかけたり、メールを頻繁に送るようになって、かえって彼に好意を持ったようなのだ。
 「同じ轍を踏まない」という決心は揺るがない。また、別の顔を知ったからと態度を変えるわけにはいかない、狭量な男として見られたくない、という上辺を取り繕う気持ちもある。結局、鈴香とは一定の距離を保ち、その微妙な関係を続けていた。

 愚痴が少なくなった鈴香。ファンデーション越しに透いて見える頬の紅み。散らかり始めた笑顔。そんな彼女を見て思う。
「(今日はもう尋ねることは無理だ)」
 ブラジャーの下側が痒いらしく、ブラウスの上から乳房を持ち上げるように、だが気付かれぬよう控えめに掻き始めた彼女を見て、啓次は立ち上がった。
「帰ろうか」
 何も気にする様子を見せず、鈴香が元気よく答える。
「そうですね」

 駅へ向かう二人。
「海が見たいわ」
 鈴香が呟く。ドラマのようなセリフ。ベイエリアが舞台であるからなおさら相応しい。
 彼女の希望通り、専門店街から外れた海沿いの歩道を歩いた。海の向こうに様々な光で輝く観覧車。カップルがちらほらいてもおかしくない眺めなのに、二人以外に人が見当たらない。鈴香は体を寄せるのでもない、微妙な距離を保って啓次の横を歩いた。海を見ようとしても、重油のように真っ黒に広がっているだけでよくわからない。海から観覧車へと視線を動かした啓次に鈴香は言った。
「わたし、どこが駄目だったんでしょう」
 瞳だけを見れば処女にも見える。うぶな男ならそう判断する。ならば啓次はうぶといってよかった。
 モニターに映る鈴香。いまこの眼の前の彼女を見ていると、到底想像つかない。
「(やはりこの水谷さんに、俺の価値を判断してもらおうか)」
 いま腕を取って強引に引き寄せても抵抗しないだろう。彼女の誘惑にのるのも悪くないが……。
 青い星が、光を送るように瞬いて見えた。
「昔、蛹の話してくれたよね。幼虫がひたすら餌を食べ続けて、そして成虫となって子孫を残すために飛び立ち、交尾の旅に出るって。蛹はそのための準備だって……」
 啓次は問いかけていた、居酒屋で尋ねるつもりだったこと。
 考えているのか、視線をさまよわせてから鈴香が答える。
「わたしできそこないの蛹だったんですよ」
「え?」
「わたし、留学していたときがあったんですけど」
「……ああ、ブログ読んで知ってる」
「で、そのとき、いろいろあったんです」
「どんなこと?」
「蛹のときに傷つけられると、致命的でなければ、なんとか羽化までたどりつくじゃないですか」