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アノニマスアイデンティティ

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「家に着くまでに話しかけろ? ああそうだなあ。実家住みかもしれないし、一人暮らしだとしても家に着いちゃったら話しかけるのはムズいよな」
 しばらく考えている様子。
「よし、お前ら、期待しとけよ。AV的な展開もあるかもしれんし」
 秀太郎はスマートフォンのカメラを顔の斜め前に持ってくると、長い前髪を手で掬い取ってふわと流す様子をわざわざ見せながら早歩きになった。
 徐々にクローズアップされる少女の後ろ姿。黒い洋服の生地がサージだとわかるまでに近づいたところで、秀太郎が声を掛ける。
「すみませーん」
 何も反応はない。多くのコメントが流れる中に、『そのまま公園に連れてって押し倒せ』という文だけが啓次の眼をひく。
「すみませーん、ちょっと」
 再び声をかけ、女の肩に手を掛ける秀太郎の左手。白く長い指が啓次の眼から見てもセクシーだ。
「あ、いや、さっきのコンビニの件なんですけどね、いいですか?」
『やらせ?』というコメントが画面に溢れる。
「ほら、こんな証拠写真もあるんだよね」
「何の用ですか?」
 声を低める少女。あきらかな警戒。
「君、近くで見ると可愛いね、あ、いや、だからはっきり言えば万引きの話なんだけどさ」
「変な人! ちょっと、付きまとわないでくれますか!」
 興奮気味に少女の音程が上がる。少女の反応は至極妥当だと思う啓次。
「いや。違うんだ。だからさ……」
 ヘッドフォンから聞こえるうろたえ声に啓次はほくそえむ。
「んん……、うううん」
 言葉に詰まった秀太郎が咳払いする。クラシックコンサートで第一楽章と第二楽章の間の空白部に聞かれるような咳払い。そして第二楽章が始まったのか、意表をつくリズムとテンポで話し始めた。
「人はそれぞれ悩みを抱えて生きている。僕には理解できるんだ。アトラクトな君のその美しさは、外面だけに用意されているのではなく、内面、つまり心にも用意されているとね。つまり、悩みがあるのなら……」
 第一楽章がアレグロヴィアーチェ、第二楽章はロマンツェ?
 会話に夢中らしく、画面には黒いアスファルトが映るばかり……いや、モニター全面に映った人の姿が徐々に大きくなり、振り向くと歩み寄る母の姿が。
「ねえ。さっきの続きなんだけど、ちょっとお願いがあるのよ」
 ヘッドフォンを少しずらした右耳に届く、母の焦れぎみな声。肩を上下させて息をつき、頬はやや興奮気味に紅潮している。
「悩み!? そんなのあなたには関係ないんじゃないですか!」
 ヘッドフォンが覆う左耳に、少女の声が響く。
「ねえ、旅行から帰ってくる前にしゅうちゃんに訊いて欲しいのよ。いま働いてないんでしょ。これからの予定どうなってるかって」
 母は啓次の両肩に手を置いて、椅子ごと回転させて向き直らせた。
 柔和さが第一印象として浮かぶ母とは思えないほどの珍しい興奮に啓次は内心吃驚し、つい答えた。
「あのさ、仕事はしてないけど、生活できてるみたいなんだから問題ないんじゃないかな」
 よく事態が飲み込めないという表情をする母。

 兄がヴィジュアル系バンドを組んで音楽活動をしていた頃は、ライブ活動が中心だった。小さなライブハウスを常に満員にするくらいの人気。秀太郎は今よりも長かった髪をなびかせ、女性の熱狂的なファンが少なからずいた。常に複数の女性がおっかけとしてまとわりつき、様々に贈り物をする。彼の半ヒモ的生活はこのころから始まった。
「いま俺が嵌まってるのはこれさ〜」
 ブログに大好物の食べ物を書く。すると次のライブ時にはその食べ物が複数のファンから送られてくる。ブログは最初婉曲的な表現だったが、次第に彼の欲しいものを直接に書く場となった。遂には、お金に困っているようなことを書くと、個人的なスポンサーとして、活動援助の名目で現金を送ってくれる人まであらわれる始末。
 だが、他のメンバーがバンド活動に限界を感じたことからバンドは解散となってしまった。その後、再び演技の道を歩む決心をし、劇団跋扈座の劇団員となった経緯がある。
 劇団員になっても秀太郎の生活が変わることはなかった。アルバイトは公演中に休むしかなく、充分稼げやしないから、熱狂的なファンの娘からの援助をあてにしていた。
 今は、コミュニティメンバー数二万人のライブ主として、劇団員時代よりもずっと資金源の裾が広がった生活。
 なぜこんなに人気があるのか。わかるのならば、彼よりも下のランキングの配信者が上位になるのに苦労はしないだろうが。
 顔はもともと目鼻立ちがはっきりしている。トレーニングを積み重ねて絞った体はあまり放送で見せない。むしろ服を着ていると細くて華奢に見える。しかし稀に体にほどよくぴったりしたTシャツ姿になることがある。
 Tシャツの袖から見える上腕筋の力強い盛り上がり、脇から鎖骨の下まで生地に皺が一切はいらないほどの胸筋の張り。どちらも嫌味でなく、適度なバランスのよさを見せ付ける。
 男から見ても格好いいと思う。もう少し見せてくれないだろうか、例えばタンクトップを着るとか……。だが決してそれ以上は見せない。肉体のミステリアスさを保ちつつ、行動面ではきめ細やかに視聴者へ対応することが癒しをもたらし、次回の生放送に期待させて女性たちを惹き付け続けているらしい。
 その一方で本名を出して、自分の過去も何もかも曝け出す潔さ。それが見事なコントラストを織り成しているのではと、啓次は観察した範囲で判断していた。
 秀太郎は過去のバンド活動や劇団員で学んできた事柄を、ライブ配信という場で開花させたのだろう。
 二万人近いコミュニティメンバーがいれば、兄に援助したくなる女が現れるのも当然か。兄はこんなヒモに近い生活を送っている。
 啓次はこれらを兄から自慢話されただけでなく、その手の裏掲示板も見て知っていた。

 啓次は今までこのことを両親に話す必要性を感じなかったし、尋ねられもしなかったので言わなかった。そもそも兄のことは話題にしたくないのだ。
「なぜ心配ないっていえるのよ」
 怪訝な顔をする母。その真剣な表情から真実を言いよどむ啓次。左耳のヘッドフォンからは兄の声。
「こんなに細い腕をして。それに穢れを知らないこの肌の白さ。君を助けられるのは僕だけだと思わないかい」
「やめてっ、やめてって言ってるじゃない! やめろ、警察呼ぶぞっ! こらっ!」
「おっと、僕はかまわないさ」
 なに馬鹿なことを言っていると耳に神経を注ぐ。話を真面目に聞いていないと感じた母が畳み掛ける。
「何かあるの? ねえ」
 ラジオの混線。二つの放送局が同時に聞こえる。一つは真面目な人生相談。もう一つはコメディのラジオドラマ。どうしても兄の間抜けさに聞き入ってしまって、顔に浮かぶのは愛想笑いのような変に小ばかにした笑い。母に見せるつもりはなくても、ついそんな表情のまま母に答える。
「いや、まあそんな噂を耳にしただけだよ。ほら知ってるだろ。俺とアニキが仲悪いの。ろくに話してないんだから知らないよ。とにかく大丈夫だって。ほら、今忙しいから」
 息子の表情に敏感に反応し、母はむくれながらまるでやり返すような口調で言った。
「けいちゃんはどうなの? 例えば結婚。三十代なんてあっという間に過ぎちゃうのよ」