アノニマスアイデンティティ
夫がうんうんと時折相槌をいれながら聞き続けるなか、昨日もらってきたパンフレットを夫に見せ、自分の考えをとめどなく話す妻。
二十分以上にわたって家族の危機を喋り続け、喉が渇いたのか、冷めた湯呑み茶碗のお茶をぐっと飲み干して一息つけると、夫がずっと相槌を打つだけだったのに気付いた。まったく自分の考えを述べようとしない夫に、妻は詰問し始める。
「戻ってきてから働いている様子はまったくないじゃない。それでもいろいろと出かけてるようだし。まさかあなた、お小遣いでもあげているんですか」
「そんなわけない。お金のことを言ってこないってことは働いているんじゃないか? 訊いてみたらいいじゃないか」
「先週から電話は出ないし、部屋に行ってもいないんです。それに、そういうのはあなたの役目じゃないの」
「まあまあ、もう少し様子を見たら……」
「そんな呑気なことだから、こんな結果になったのです。見てくださいこの惨状! もういいわ、もう一度啓次に訊いてきます!」
*
母が去ったあと、啓次はもう冬の北海道ヒーリングサウンドを聴く気分ではなかった。
要求に応えられるかどうか、常に不安で仕方がない仕事。仕事の成果、それ自体から得られる満足はいつもささやかでしかない気がする。主な満足は、直接の金銭的報酬や一過的な他人からの尊敬でしかないような……。
父は仕事がおおいに楽しかったようだ。緑の大地を転々とイナゴのように飛び回り、ブルドーザーで整地させ、コンクリートで塗り固めさせる。そんなふうに父が稼いだおかげで自分はこのビルに住んでいられる。それは契約社員としての今の自分には望むべくもない甘んじた暮らし。
だが、次男であればここにいつまでも居るわけにはいかないのは当然。幼馴染に負けていられない。入社してまもなくの、あの順調さが続いていたら、とっくに独立して自分の家を持っていた筈……。
一人の座禅僧。他人に打ち明けられないわだかまり。
嫌な想像が頭をよぎる。ゐちゃんねる専用ブラウザを立ち上げ、わななく指で一心不乱に不満をゐちゃんねるに書き込み続けた。
アノニマスアイデンティティ。
風の吹くなか、草葉の裏に必死にしがみついて寄せ集まる名もなき生き物たち。
アノニマスでありながら他人と本音で語らう密接な交流。これほど心地よく、安楽な社会交流に比肩しうるものはない。
一連の自己という存在がありえないアノニマス空間。個の存在が曖昧でありながら、それぞれが充分本音をもって主張し合える。出会うなり殴りつけて唾棄した挙句、肩を組んでお互いの頬をぐりぐりと小突き回すような、そんな現実にはありえない世界の心地よさったら……。
最初に眼についた雑談板のスレッドにいくつか書き込んだが、何か祭りがあったらしくまったく相手にされないので、仕方なくニュース関連板に書き込む。しばらくすると、「自分語りやリア充の自慢ですか?」などの反応があり心が落ち着く。さらに書き込み続けると、「スレと関係ねーレスするんじゃねーよ」という罵倒の返信が複数書き込まれた。これを見て、やっと安心して胸をなでおろした。同情を寄せてくれる書き込みは、すべて当然のように無視した。
ゐちゃんねるというと、啓次はある出来事を思い出す。
それは、社会人としての第一歩を踏み出しはじめた入社式の翌週だった。新人研修で、自分がまるで一つの経済単位のように無機質に扱われ始めたことにショックを受け、社会人として生きることの不安が高まっていた。新調した黒く輝く革靴がやけに重く感じられた朝の通勤時、揺れる電車内でつり革につかまっていた啓次は、突然隣から声をかけられた。
「いま何時?」
さも旧知の間柄のような気楽な調子。見ると、自分とそう変わらぬ二十代ほどの見知らぬ男だった。どうやら社会人としては数年を経ているらしく、スーツも体にしっかり馴染んでいる。なんだこいつと面食らいつつ腕時計を見て、
「ああ、八時だな」
と負けじと友達のように言うと、
「お、サンキュー」
とやはりフレンドリーに返してきた。啓次は、面白い奴だフフ、と微笑んだ。もしかしたら、彼は寝ぼけていて啓次を同僚だと勘違いしたのかもしれない。すぐに気付いたが、恥ずかしいのでそのままやり取りを続けた、と考えられなくもない。だが、そんなことはどうでもよかった。肌と肌のあいだに厳然と存在するはずの壁。その壁がない奇妙な心地よさ。
たったこれだけの全く無意味なやり取りだったが、気分が楽になり会社へ向かう足取りも軽くなっていたのだ。
楽しげにスレッドを読みふける啓次。その右隣の監視モニターにちらと動く人影。店員でないことは一目で知れる。その人物の輪郭に、彼は深い森で交尾相手を探している虎のようにすばやく反応した。
店内をそろそろと静かに歩くのは一人の女、いや少女といえるほど若く見える。肩に少しかかる程度の、やわらかくウェーブがかかった栗色の髪。そのふわっとした感じは啓次の好みだった。髪型に隠れているために目元がわかりにくいが、形の良い卵形の顔に、上品で控えめな口元はわかる。なによりミニスカートからゆるやかな曲線を描いて伸びる脚が魅力的だ。この監視カメラは、美人を醜く映してしまう傾向があるのだから、実際に見たのならばどれほど美しいのだろうか。
彼女はそのまま通路のカメラから姿を消す。啓次は外のカメラの映像を見るが、ウィンドウにブラインドが半分降ろされているので店内は見えない。再び通路からの映像を見ると、彼女は元の位置に戻り、画面の中心から少し外れたところに立ち止まっていた。
ここ最近憂鬱でまわりを見る余裕がなかったせいか、外見に惹かれる少女を見たのは久しぶりだった。黒を基調とした服とミニスカートの容姿が高校生を思わせるのか、かつて好きだったクラスメイトを見ているような気分。そして、そんな心を騒がせる一人の少女を覗き見していることの下種さが興奮を奇妙に盛り上げる。
思い出すのは、渇望し続けた挙句、食道と胃に穴があきそうな酸っぱさしか味わわなかった青春の日々。それを反芻するように彼女の姿に食い入った。
彼女は左腕の肘にバッグをひっ掛け、ポテトチップスだろう、大きな袋を胸に当て左手で抑えながら歩く。そして、レジから離れたパウンドケーキやタルトなどのやや高額な生菓子が並ぶ棚の前で商品を右手に取り、ポテトチップスと胸の間に挟もうとした。いや、すぐに商品を棚に戻したかと思うと、再び商品を手に取って同じ動作を繰り返す……いま口の開いたバッグに何かが落ちたような……。
自身の眼も、意識も、必要なら存在さえ疑った。仕方なく自分の存在を肯定すると、襲ってきたのは、見なかったことにしようという背徳的な正義感。
脈拍音がメトロノームのようにリズムをとって内耳を圧迫する。前回の健康診断で高血圧気味と言われたせいか、やけに響く。
冷静に考えてみようと深呼吸し、モニターに近寄っていた自分の体を起こして、少女に集まっていた焦点を広く取った。すると、通路のもう一台のカメラの画面に何か動くものが。
「あの野郎ぉ」
低くかすれた声が洩れ出る。映っていたのはまぎれもなく秀太郎だった。
「なにやってんだ。あいつも見てたのか」
作品名:アノニマスアイデンティティ 作家名:新川 L