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アノニマスアイデンティティ

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 今日の父は妙だった。普段であれば、いずれ家を出て行く次男の啓次に対してあまり干渉しようとしないし、お土産なんてお菓子しか買って来たことがない。今日はいつにない優しい言葉をかけてきた。昨晩の醜態のせいか? そんなに哀れを催すものだったか。いま一度記憶を辿る。
 母に起こされたあと、朦朧とした中でシャワーを浴びた。なぜシャワーを浴びたんだろう。多分酔って自分が酒臭かったんだろうが、あれくらい酔ったときは、普段ならそのままベッドに直行するはずなのだが……。
「(あっ!)」
 声にならない叫びが喉の奥を突き立てる。と同時に頭蓋の裏側に投影される逆回転のフラッシュバック。
 引き剥がすように脱いだトランクス。腰周りがぐっしょりと濡れ重くなったジーンズ。たしか、起こされる直前に見ていた夢は、街の中で彷徨い、立小便する場所を必死に探していた自分の姿。
「(そっか、俺はおねしょをしたんだっけか。そういえばシャワーを浴びるとき、ああやっちまった、と呟いていたような……)」
 前回のおねしょは朧げだが確か小学校3年生のとき。酔っていたとはいえ、二十三年ぶりのおねしょという衝撃に、思わず頭を抱えたくなる。
 救いを求める手。それを、同じ思いをした者が握り返してくれるほど嬉しいことはない。
 大人のおねしょについて幅広く検索し、同士を何人か見つけたときだった。
「けいちゃんいい?」
 背後から母の声。振り向けば、母の顔が扉からのぞく。おねしょのことなど微塵も気にとめていない表情だったので、一先ずほっとした。
 父が出て行ってそう時間が経っていない。さっき父が来たのは、母に言われての様子見だったかと勘繰った。
「なんだよ、入れ替わり立ち替わり」
「しゅうちゃんのことなんだけど」
 兄の名前に眉根を寄せる啓次。それを見る母。しかし今の彼女には息子の表情を気にする余裕はなかった。彼女は、これまで啓次にも兄秀太郎にも同様に気を配ってきたが、半年前に劇団活動を突然やめ、たまたま空いていた二階のワンルームに転がり込んできた秀太郎のことが今はより気がかりなのだ。
「どうかしたのかよ」
「どうかじゃなくて、最近は何してるのか知りたくて」
 兄のことを自分に尋ねる母に、かっとなって声を荒げる。
「知らねーよ。自分で訊いてくれば」
「行きづらいからけいちゃんに訊いてるんじゃない?」
 母が咄嗟に出した、落ち着き払った疑問形が、啓次に深呼吸を促す。息をゆっくりと吐く啓次。すると、不意に頭をかすめる朝食時の風景。昨日までと違って新しくなっていたソファーのカバー、ベランダに干されていた、洗濯カゴに入れた記憶のないジーンズ……。
「いや、自分の息子なんだから堂々と訊いてきてよ。今ちょっと仕事で忙しいから」
 思わず母から視線を外し、嘘をついた。
「わかったわ」
 案外素直に部屋を去っていく母。昔から仕事という言葉に弱いのだ。
 啓次は母の後姿を見ようとしない。
 母の老後の望みは、子供の結婚と孫の顔を見ることだけ。孫は、できれば女の子。やんちゃな男の子は二人育てれば充分。おしとやかな女の子を好きなだけ思いっきり抱きしめてみたい。でも、それが高望みだというなら男の子でもよい。残りの人生にそれ以外は望みはしないが、そのことだけは実現を希望してやまない。
 そんな純朴な人であり、父とは異なり普段は仲が良いこともあってか、決まり悪そうにモニターに視線を戻した。

 母は啓次の部屋を去ってダイニングに戻ると、ペコと犬の歯磨き用ロープで引っぱりっこしていた夫の腕をつねるように掴みあげ、椅子に座らせて叫んだ。
「あんな先々で皮を脱ぎ捨てる生活。これじゃイナゴじゃないの。しゅうちゃんをこれ以上ほっとけないわ」
 最近は晩婚化している傾向があるとはいえ、三七歳と三三歳という独身の息子たち。特に四十という数字の背中が見えてきた秀太郎については心配でたまらないらしい。
 秀太郎が実家に戻ってくる前、彼は十五年近く転々とアルバイト生活をしながら都内に一人暮らしをしていた。最初は映画俳優を志したがうまくいかず、のちにヴィジュアル系バンドを結成して七年ほど活動。その後、劇団跋扈座という劇団に入団していた。そこそこ人気のある劇を催す小規模の劇団だったらしい。
 それらの活動に熱心なあまり実家には殆ど寄り付かなかったが、突然半年前に実家に帰ってくる。二階のワンルームのうちの一つがたまたまあいていたことをいいことに、しばらく居させて欲しいと父に頼み込んできたのだった。最初本人は帰ってきた理由を詳しくは語ろうとしなかった。しかし訳ぐらいは言えと父に迫られて話し始めてみれば、たいして物惜しみする様子も見せず、どちらかといえば嬉々と語りはじめた。要するに劇団内での活動方針の違いから問題を起こし、劇団員の一人を殴って退団し、ついでに他の劇団員とともに勤めていたアルバイト先もやめてきたということだった。
「あなたは大丈夫なの? 息子がもう四十歳になるというのに」
 つい先週までの妻とはうって変わった激しい訴えに夫も手をこまねく。
 呑気な人ほど、一度心中の懸念に火がつくと、ぱちぱちと音を立てて勢いよく燃えるのか。

 先週のことだった。昼食を終えた妻が、いつものように夫と午後のワイドショーを見ていたときのこと。
 番組ではある特集をやっていた。自分の子供よりひとまわり若い子供を持つ親たちが、率先して子供たちの就職や結婚のサポートをしているというもの。
 息子の就職活動に、息子以上に真剣な面持ちで関わる父親の姿。自分が料理できなくて苦労したからと、料理教室に娘を連れて行く母親。入社式の会場に、子供たちに付き添う、緊張の中にも嬉しさを満面にたたえた沢山の両親たち。そして、いまひとつ積極的でない結婚適齢期の子供に代わって親同士が婚活する代理パーティや代理見合い。
 はじめ、母にはどれもこれも「いまの親はこんなことまでするのね」と滑稽にしか見えなかった。番組内のリポーターが最後に締めくくる。
「今の時代は、家族が一丸となって子供の社会イベントに積極的にかかわらないといけない時代になっているようです。そうでないと就職も結婚も出来ないのです。まさに家族全体主義の時代と言えます」
 母はふと自分の息子達を省みた。大学を卒業したことで満足し、今まで安穏としていた自分たち。以降放置していた結果はどうか。二人とも独身で、結婚のけの字の気配も見えないではないか。放っておけば、もっと悪い状況になっていくのでは。つい先日まで、「いまは晩婚の時代だから仕方が無いわよね。どこの家も同じようなものだし」と言っていた自分の無知さが恐ろしくなってくる。もしかしたらわたしたちの子育ては失敗し、我が家は瓦解しつつあるのでは……。
 将来への不安が一気に噴き出した。
 艶々とした美しい毛並みのペコに餌をあげていた夫は、妻が必死に何かメモしているのに気がつく。それは番組内で紹介していた『親御様の結婚活動を支援します』という結婚式場と結婚相談所が合同で開く説明会だった。そして昨日、妻は率先して夫を連れ説明会に行き、さんざん現在の厳しい結婚状況と親の役割の重要性を教化されてきたのだ。