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アノニマスアイデンティティ

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 無神経に煙を吐き出し、灰が幼児の眼に入ってもおかまいなしの歩きタバコ。傘をわしづかみにし、後ろの人に突き刺す勢いで腕を振って歩くリュック背負いのサラリーマン。横断歩道に猛スピードで突っ込み歩行者を蹴散らす車。不快な低周波音を基調にエンジン音を轟かせる不正改造車。電車内では、無秩序に電車のシートを占有する鉄面皮な輩のわきで外界一切に無関心な態でスマートフォンをいじり続ける輩。どれも、他人に最大限に配慮をしようという心根を持っている人を嘲笑うかのよう。
 徒歩、車、電車、いずれの手段であっても、都会から人のいない美しい郊外に足を伸ばそうとするならば、これらの数え上げればきりがない苦痛に耐えなければならない。おまけに帰路でも、おかえりなさいとばかり再び諸手を上げて出迎えられる始末。
 それに最近は玄関を出れば、スカイツリーなる巨大建造物が威圧感たっぷりにこちらを見下ろしているので、尚更外出が厭わしい。ただでさえ狭い都会の空。それをまっぷたつに割って、紺碧の空をゆっくりと流れる雲を鑑賞する機会を奪い、夜は、ひっそりと見守っている月のかたわらで、かすかなメッセージを送ろうとして瞬く星たちを嘲笑い全否定するかのように自己主張の光りを発するバベルの塔。
 通勤や生鮮食料品などの生活必需品の買い物など、必要時以外は外出するなというのか。唯一外出を本能的に駆り立てるものであろう街なかを歩く美人でさえ、そんな雑踏の中では霞んで見え、眼の保養として充分に愉しめない。
 ちょうどいま監視映像には、痰を吐き捨てたみすぼらしい中年男が映っている。もう吐き捨てられたガムや、ぬめっと光る痰に気をつけながら歩くことに疲れきっているだけでなく、無数の様々な色の影を見ることにも疲れきっていた。
 愛しい女性と歩けば、薄汚れた街の雑踏も輝いて見えるのかも知れないが……。
 すべてをなげうって、田舎に居を構えるか。何度考えたかもしれない。しかし田舎での仕事の見込みが立たず、結局はこの生活を捨てきれない。仮にできるとしても、今度は都会から逃げたようでどことなく癪……。
 アイデンティティクライシスだろうか。だとしたら何度目だ。
 正社員をやめて契約社員になったとき、聞こえるか聞こえないかの声で父が呟いたことがある。
「恒産なきものは恒心なし」
 揺れる美女は魅力的だ。見ていると、意識も体も引き込まれるような感覚に襲われる。しかし、揺れる野郎はなんともみっとない……。

 モニターを前にしてから既に一時間半が経過。突然肩全体を揺さぶられるように揉まれ、慌ててヘッドフォンをずらしながら振り向いた。見るとそこにはレギュラーコーヒーの香りを漂わせながら、マグカップを右手に持った父が立っている。
 父の長年日焼けした肌は、若い女性にもてるためにわざわざ日焼サロンに通っているのかと思うほど健康的な色香が漂う。そんな褐色の父の顔を見上げながら啓次が言う。
「ノックしろよ」
「したよ」
 自分の耳に人差し指を突き立てる仕草をしながら、父は野太く響く声で答えた。毎日発声練習している歌手のような腹から出すバリトンの美声。加えて威風堂々たる物腰。
「また、カメラ見てるのか。よく飽きないな」
 あぐらのまま手で机を押して椅子を回転させ、父に向き直る。その姿はまるで、嵌まってしまった人生の袋小路に懊悩し、蓮の上で座禅を組んで瞑想する修行僧のよう。
「じ、自分で付けたんだろ」
「休日は出かけた方が疲れ取れるぞ。今日は天気いいんだから」
 コーヒーが熱いのかふぅと息を吹きかける。啓次は、コーヒーの香りにブルドーザーのような父のグリス臭が混ざっているような気がして顔をしかめた。
「雑談でもしに? コーヒー臭いんだけど」
「まあまあ。朝言い忘れたけど、来週またお母さんと旅行に行くから。今度は一週間の予定で四国でね」
「わかったよ。で、他には」
 昨晩の醜態もあって早く追い払いたい。
 父は再びふぅと吹きかけ、ずずと意味ありげにコーヒーをすする。右のモニターの監視映像とは別に、左と中央のモニターに複雑な表示が並ぶ。かつて建築会社の営業マンとして近隣近県を駆けずり回り、三十年にわたって土地所有者を口車にのせ、何棟ものアパートやマンションを建てさせてきた父にはたいして興味がわかない。
 営業成績からいって、当然のごとく会社から支店長に推挙された父だったが、固定給の支店長では嫌だと断り続け、現場で営業活動を続けられる課長職にとどまり続けた。
「人生を豊かにするには、他人とは違うことをしなければ。これが団塊の世代の競争で身につけてきた俺流の知恵だ」
 定年退職の三年前、充分に資金が溜まったことから退職し、このビルを建てたときに父が言った言葉。そのときとまったく変わらぬ昂然たる面持ちで言う。
「ああところで、タオルケットいるか? 今治タオルっていうやつ。もうお前の古いだろ」
 ベッドの上には、昨晩酔い潰れた啓次の異臭たっぷりの汗を吸い取り、糸があちこちほころび出たタオルケット。それを見ながら父が言うやいなや、啓次は素早くキーボードを叩く。
「愛媛県の今治か。タオルの専門ショップもあり」
「高級タオルで有名だから行ってみたくてね。そこで良いタオルケット買おうかなと思って。きっとよく眠れるぞお」
 脂光りした顔。頬が艶々とまるく盛り上がってくる。
「啓次、お前のも買ってきてやろうか?」
 屈託ない笑顔だ。
 例年以上に寝不足に悩まされた今夏。うざい父が来たと思っていたが、高級タオルケットにくるまれば、この冬はどんなに心地よい眠りが得られるだろうか、と頭の片隅でつい想像してしまう。
「ああ、ありがと……。でも、通販もあるじゃん、東京にも支店あるみたいだし」
「ふむふむ、そうなのか。ま、でも現地の人たちと話して、現地の空気を吸ってくるのが楽しいんじゃないか。産地ものは、本当にいいものを自分達で消費して、あまり外に出さないもんだ。掘り出し物もあるかもしれん。いや、タオルはどうか知らんが、ハハハ」
 何がおかしいのか窓を破るような大声で笑い、「ま、楽しみにしてろ」と出て行った。
 父は営業マンとして始終車で駆けずり回る生活を送っていたが、よっぽど運転が好きなのか退職後も母を連れて季節のよい時期に車で遠出するのだ。

 ツーリング。日帰りのツーリングなら、啓次は学生のときよく行った。純粋に楽しかった。楽しみを妨げるものが何もなかったから。いま考えるとそう思う。
 仕事のこと、いや仰々しく言えば将来が気がかりであれば、ツーリングも何も楽しくなくなる。だからオートバイは売ってしまった。両親がかつては旅行も行けないほど忙しかったことと似ているようないないような。モノクロの擦り切れた写真と24ビットフルカラーの液晶のように、時代が違いすぎて比較しようがない。
 小心者? 否定は出来ない。だが、小心者が小心者なりに不安を解消するには、外出で時間を潰さずにネットで情報を集め続け、仕事の現状打破なり、もっと自分に適した仕事なり、直面する問題の解決手段を捜し求めた方がいい。
「(しかし、オカシイ……)」