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アノニマスアイデンティティ

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 その程度のことは、啓次も知っている。ただうなずいて次の言葉を待った。
「でも、大なり小なり障害を持って羽化しますよね」
「つまり……あ、いや嫌なら話さなくてもいいんだけど……」
 躊躇っているらしい鈴香の表情に、啓次は迷う。月が波間に揺れているせいか、かるく眩暈がする。
「わたしもそうなのかなって……。知りたいですか?」
 いつのまにか挑戦的な態度で微笑み返している。啓次は首を振る。何一つ隠そうとしない態度が鼻についた。
「そのうちブログにも書くかもしれないので楽しみにしていてください」
 そう言って、彼女は黙った。
 駅への階段の上り口。閑散としたなか、蛍光灯が階段を青白く照らしている。二人は会話もなく、その階段を登り始めた。後ろからテンポの速い靴音がして、スーツ姿の男が二人を追い越して駆け足で階段を登っていく。
「(蛹、蛹か)」
 啓次は想像をめぐらした。蛹とは留学中のことだろう、その留学中に何があり、どんな障害が残ったのか。嫌な想像がいくつも浮かび、隣にいる彼女どころではない。
「帰ったら、蛹、障害、研究とかで画像検索してみてくださいね。わたしと会ったからムラムラして、エロ画像とか検索しないでくださいよ」
 最後の言葉にむっとした啓次。とりなすように、再び処女の顔に戻って鈴香が言う。
「相談したいことがあったんですが、できなかったです。今度時間があったときにしますね」

 帰宅後、啓次は検索した画像のおぞましさに粟立つ思いがした。
 自然の摂理。病気や傷は、仕方ないと納得して見られた。凄惨なのは、研究などで人工的な細工を施されて羽化した蛾。怖いもの見たさに一覧画像をしばらく追い続ける。しかし、後ろの画像ほど凄惨さが増す気がし、自分の理性を疑って途中でやめた。
 気晴らしにアダルトサイトでも見るかと画面を切り替えた、がすぐにパソコンの電源を落とした。

   *

 秀太郎が少女を追ったライブがあってから、四日が経っていた。
 あれから兄の放送はなく、啓次は兄に会うこともなかった。両親も旅行から帰っていないので、一人と一匹の生活が続いている。もっとも、ペコは両親が帰ってくるのを屋上で見張ってばかりいたが。
 なんとか明日の期日に間に合わせようとぎりぎりまで残業して資料の作成を終え、終電間際の電車に乗って帰宅した啓次。
 缶ビール片手に家の近くまで来ると、窓から明かりが漏れている。消し忘れたかと玄関の扉をあけてみれば、兄の靴と女性ものの靴がある。居間から聞こえてくるのは男女が談笑する物音。しかも、若夫婦のように仲良さげに。啓次は驚きから声も出せずに、ただ居間の扉を、手首を痛めるほど荒々しくあけた。
 そして、眼の前の兄には眼もくれず、啓次が凝視したのは、"あの"少女……。
「俺の部屋狭いし料理もしにくいから、ちょっと使わせてもらってるぜ」
 ただ立ち尽くす啓次に、秀太郎がすかさず言い訳する。テーブルに向かい合って座り、食事を続ける兄と少女。
「どういうことだよ。ちゃんと説明しろよ。あ、あの放送のあとのことを」
「ん? ああ……いや、話せば長くなる。つまりはだ、彼女に俺の真摯な姿勢を見せて、彼女が認めてくれたってことかな」
「要約しすぎだろ。わかんねーよ。それに彼女は下の店で」
「何もなかったよ。うん、何もなかった。あのあと俺が店長にちゃんと話してある」
 啓次は刮目して相待った。かつてこれほど鷹揚な兄は見たことがない。
 これが二万人を擁した結果なのかどうか、判断を付きかねる。
 一方、気がかりだった眼の前の少女にも好奇心は抑えられない。兄から視線を移せば、監視カメラでわからなかった眼はすこし垂れていて……いや垂れ眼メイクかもしれないが、万引きをするとは決して思えない可愛いさがある。
 秀太郎がおもむろにテーブルの上のスマートフォンを手にとる。
「さてっと、喰ったし、ここでちょっと放送やっていいかな?」
「やめてくれ。こっちは仕事で疲れてるんだから。もう一杯呑んでゆっくりくつろぎたいんだよ」
「しゃーねーな。じゃ下に行くか」
 兄は、食器を片付け始めた少女に声をかけて居間を出て行こうとする。
 少女の手前、片付けてから行けよとも言えず、啓次はビールを呑もうと自棄気味に冷蔵庫をあけた。しかしビールが一本も無い。空き缶ボックスを覗くと、そこには真ん中が潰された何本もの空き缶が捨てられている。あらためて見れば、テーブル上の空き缶もすべて前日に買っておいたものだった。
「おい、俺のプレミアム全部呑んだのかよ。今日ひと仕事終わらせたら呑もうと思ってたのに」
「いや、彼女と呑んでたらついつい本数が増えちゃってさ」
 見つかっちゃった、という表情の兄。ビールのために仕事を頑張った啓次の神経を逆撫でするような仕草だった。啓次は腕時計を見ると、
「買ってこいよ! 十二時過ぎたから下のコンビニしまっただろ」
「わかったわかった、すぐ買ってくるから」
「あのごめんなさい。わたしもすこし呑んじゃったから」
「いや、いいんですよ。あいつが悪いんだから」
 啓次は慌てて少女を気遣う。
 兄の靴音と扉のしまる音が廊下に響くと、はからずも少女と二人きりになったことに気付き、椅子に斜め掛けしてちらちらと少女を盗み見た。
 よく見れば少女とは呼べない年齢のよう。もしかしたら二十代後半かもしれない。
「あのう、兄と付き合い始めたんですか? あんな飛蝗、いやイナゴでもいいけど、どこがよかったんですか?」
「あだ名ですか? 素敵なイナゴさんですよ」
 まったく瞬きをしない。まるでドールのような眼で見つめて話してくる。
「お芝居やっていたからか、とてもお話の仕方が素敵だし、なによりもとっても優しいもの。あと、二万人のコミュニティメンバー数って凄くないですか? 戦国時代だったらそれだけでかなりの勢力ですよね。お兄さんも言ってましたけど、がんばれば一つの国をもてるほどなんですから」
「あのとき、声をかけていたのが兄じゃなくて俺だったらどうだった?」
「弟さんは、どうするつもりだったんですか?」
 思い出すのは、ただ迷い続けていた自分の姿。声をかけるどころか、部屋から出たかどうかも怪しい姿。
 初対面の男を前にして緊張しているのか、見ようによってはまるで病んでいるように少女は次々と話し始める。
「初対面のわたしにも親身になってくれて……いえ、警察を呼ぼうとしたわたしにも恐れずに、身を捨てる覚悟で助けてくれたんです。わたしの過去にもこだわらないんです」
「(助けた?)」意味がわからない。
 少女の大きな瞳。どんな光も屈折せずに真直ぐ受け入れそうで……それが大きく黒々と見える理由なのかもしれない。そして、秀太郎の纏っているものにも気付かずにすべて受け入れてしまった……。
「わたし、実は、ネット上でイラストを発表してもうまくいかなかったり、出会い系で嫌なことがあったりして。落ち込んでいたんです。だからあんなことをしてしまって……秀太郎さんはあんなふうにネットを駆使して、何も包み隠さない勇気もあって、わたしは愉しい人だと思いました。」
 やっと瞬き。濡れた黒い瞳が輝く。