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アノニマスアイデンティティ

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「お兄さんは、自分という存在を確信してるんですね。だからあんな行動が取れたと思うんです」
 飛蝗として最後の脱皮を終えたのか。
 そう考える啓次の肌から、いつのまにかねっとりとした汗に似たものが滲み出て体を覆い尽くそうと……。

 ドアの開く音がした。
「おーい買ってきたぞ」
 啓次は居間に入ってきた兄からビニール袋をひったくると、ビールを取り出し、立て続けに二本呑み干した。そして何も言わず自室へ行ってしまった。
 部屋の片隅に一昨日届いた段ボール箱。啓次は手でむしりあけて、寝袋を取り出す。
 蛹化直前の脱皮に格闘する幼虫。いや、使い方がわからず四苦八苦している姿だった。
 ようやくファスナーを閉じ、静かに横たわっていると、涙がこめかみを伝う。涙滴が立て続けに流れ落ち、耳に入ってくる。涙を出そうと寝返りをうった。
 蛹となって眠っているとき、神経系以外は溶けたようにドロドロになっているという幼虫は、どんな感触に襲われるのか。
 体の中の溶けたものが流れ出るように、涙が耳から流れ出て、啓次は幼虫の気持ちがわかった気がした。

「なんだあいつ。君を誘おうとして断られでもしたのか」
 兄の笑い声が廊下に響きわたっていた。

   *

 金曜日の午前。啓次が作成した資料についてのレビューが行われた。
 始まるなり、早速指摘される。啓次の設計では、セキュリティホールがいくつも存在するという。
「新しい部分があるんだから、従来のやり方にちょっと工夫をしました程度じゃ駄目だよ。裸でそこらじゅう歩けるの? 君」
 限りなく検索しつづけて多くの資料を集め、念入りに設計したのだが……。
 やはり、すべて溶かし尽くして再構成しなければ、得られないものがあるのか。
 それとも、自分には蛹化はできず、気ままに方々で脱皮する生活があっているのか。
 不意の錯綜に、啓次は戸惑った。
「再度の検討を要するよ。月曜日にまたレビューするから」
 土日も出勤しなければならないだろう。プロジェクトマネージャーの言葉が脅迫のように聞こえた。
 啓次は自席に戻ると、資料を前にして動かなくなった。
 パソコンから時折小さくポコという音がする。メールが来た音。
 見ると、以前担当したシステムについての問い合わせメール。早急に返答して欲しいとのこと。返信しようとするが、自分でも不明な点があったので検索する。
 検索結果の端で踊る広告。『週刊NR750を作る』
 先日、久しぶりにオートバイのプラモデルでも作ろうかなと検索した結果が反映されたものだろう。クリックの欲求を抑えて返信し終えると、またポコという音。開くと社内回覧用のメール――呑み会開催のお知らせ――。
「駄目だ。昼は外で食べよう」
 外で昼食を摂るのは、いつも集中できなくて気晴らしするときだった。
 エレベータに乗ろうとするが、既に多くの社員がエレベータ前に溢れている。待ちきれず、誰もいない階段を降りはじめた。下から男二人が話し合う声が聞こえる。一人は課長の声だ。
「……さくらの仕事はいろいろ問題があるからね。表ざたになったらやばいし。もう外部委託でいいでしょ。で、例の彼女がチャトレしてるんだって。見たことある?……」
 突然向きを変え、階段を駆け上がってフロアに戻ると、啓次は額から汗を流しながら水谷鈴香の姿を探し始めた。

「話があるから外で一緒に食事しよう」
 啓次は、驚きつつも少し嬉しげな彼女を連れ出した。
 ビルの敷地の北西側、人通りのない通路を選んで、彼女に言った。
「やっぱりもうチャトレはしないほうがいいよ。少なくとも顔を出すのはもうやめにしたほうがいい。さっき社内で君のことを話していた人がいた」
 案にたがい、鈴香は気にせず、逆に啓次を安心させるような表情を見せた。
「知られたからどうだっていうの? アルバイトは禁止されているわけではないし、わたしも知られていいから顔出しているのよ」
「え、でも、君の部署も廃止にするようなこと言ってたし……」
 レストラン街に向かって、細長い公園のように広い歩道を二人は歩く。歩道の両側は広く舗装されおらず、生垣といくつもの大きく育った街路樹が植えられていた。
 上空に突然暗雲が立ち込め、強烈に光ったかと思うと、一気に雨脚を強めた。二人は歩道を外れ、濡れた土に足を取られないようにしながら大きく茂った木の下に駆け込んだ。
「この前相談したかったことね。最近ブログで知り合った男性と付き合い始めたんだけど、なんとなく結婚を匂わせてきたのよ。でも、男の人ってこういう女の過去を知ってもまじめに付き合う気になるかどうか知りたくて」
 雨がアスファルトに滲み、少しずつ水溜りができていく。
「そうだったのか、俺には……」
「でも、もういいのよ決めたから。別に社内でいろいろ知られても気にしないわ」
 薄日が差し始め、雨脚が弱くなる。水溜りを見ていた啓次は、ずっと視線を寄せた土の上、鈴香の足元に、蝶が落ちていることに気付いた。
 カラスアゲハだった。
 輝く黒の翅に、揺れる木漏れ日が当たり、ところどころ紫とも青ともいえぬ光が踊っている。
 空模様をうかがっている鈴香に啓次は言った。
「アゲハっていつまでいるんだろう」
「羽化が遅れた蝶は十月くらいまでいるらしいわよ。もう相手なんて殆どいないのにね」
 空を見上げたまま鈴香が答える。
「あがったわ。行きましょう」
 前に立って歩き始めた鈴香。カラスアゲハを踏んだことにも気付かない様子で。
 踏まれたカラスアゲハのまわりに、鱗粉が散っている。砕かれたオニキスのように美しく漆黒に輝く鱗粉を一瞥してから、啓次は鈴香のあとを追いかけた。
(了)